潜在能力を最大化せよ
6月20日、アメリカのゴンザガ大学3年生、八村塁さんが日本人として初めてアメリカのプロバスケットボールリーグNBAのドラフトで1巡目指名を受け、話題を呼んだ。そのニュースを見ながら、僕は別の日本人バスケットマンに思いを馳せていた。高校卒業後に単身渡米し、2010年、イリノイ大学の主力として全米大学選手権で優勝。2012年、2013年にはキャプテンとしてチームをけん引し、全米大学リーグのシーズンMVPを連続受賞している。大学卒業後は、ドイツでプロ選手に。6年目となる今シーズンは、ヨーロッパのクラブチャンピオンを決めるクラブ選手権で3位に入った。
八村さんはとてつもなくすごいけど、このキャリアも前代未聞だよな――。僕が思い浮かべていたのは、香西宏昭さん。日本で唯一、「車いすバスケットボール」のプロ選手だ。1988年7月14日生まれの30歳にして、既に3度のパラリンピックに出場している日本代表のエースでもある。
ヨーロッパのシーズンが終わり、帰国して日本代表チームのトレーニングに加わっていた香西さんにお会いしたのは、6月5日。待ち合わせしたオリエンタルホテル 東京ベイのレストランに現れた香西さんは、日本の所属チーム「No Excuse」のユニフォームを着ていた。そこには「MAXIMIZE YOUR POTENTIAL」と記されていた。
直訳すれば潜在能力を最大化せよ。意訳すれば、潜在能力を極限まで引き出せということか。それはまさに香西さんの人生を象徴しているような言葉だった。
少年時代の趣味は「球技」
香西さんは、生まれつき足がなかった。先天性両下肢欠損という診断名がついている。この事実を踏まえたうえで、「どんな子ども時代を過ごしましたか?」という僕の質問に対する香西さんの回答が、完全に想定外だった。
「小学校低学年の頃はよくサッカーをして遊んでいました。サッカー熱が冷めた後は、野球をしていましたね」
サッカー? 野球? どうやって?
「サッカーは、同じマンションの友だちとしていました。マンションの狭いスペースでサッカーをしていたので、車いすの大きさが功を奏してディフェンスとしてはけっこう使えたんですよ(笑)。学校では、休み時間によく『手打ち野球』をしていましたけど、車いすであることを利用していましたね。例えば、校庭がぬかるんでいると、僕はほとんど動けない。そういう時は足の速い友だちに代走させて、ランニングホームラン!とか」
僕には車いすユーザーの知り合いがいないから、香西さんが特別なのか、車いすの少年にとってよくある話なのか、判断がつかない。ひとつ確かなのは、香西少年は友だちに恵まれて、伸び伸びと育ったということだ。
球技好きの少年が車いすバスケに目覚めたのは、小学6年生の12月。地元紙を読んでいた母親が近所の体育館で体験会を開催するという告知を見つけ、それに父親と参加したのがきっかけだった。
少年が関心を持ったのは、バスケではなく車いすだった。車いすバスケで使用するのは競技用で、普段使っているものとは性能が異なり、軽量で、小回りが利き、スピードが出る。それが楽しかったのだ。加えて、体験会で指導をしてくれた車いすバスケのチーム・千葉ホークスの選手たちが「輝いているように見えた」こともあり、当時のキャプテンから「やってみない?」と誘われて、頷いた。
「イリノイ大学に来ないか?」
それから数カ月後には運命的な出会いが訪れるのだから、人生は不思議なものだ。中学1年生の夏休み、香西さんは車いすバスケのキャンプに参加した。そこにゲスト指導者として招聘されていたのが、世界的な名将、イリノイ大学(当時)のマイク・フログリー監督だった。
このキャンプで、マイクさんから「イリノイ大学に来ないか」と声をかけられ、最終日には「10年後が楽しみで賞」をもらった香西さん。まだ13歳で大学進学に現実味はなかったが、マイクさんを通じてアメリカには大学リーグがあり、同年代と競い合う環境があるということは脳裏に刻み込まれた。
マイクさんがアメリカに帰国する日、家族で成田空港まで見送りに行った。出発前、マクドナルドに入ったマイクさんはナプキンを一枚手に取ると、そこに階段の絵を描いて、香西少年にこう伝えた。
「バスケも勉強も、一歩ずつ階段を登りなさい」
それから6年後の2007年夏、高校を卒業した香西さんはひとりでアメリカに渡り、イリノイ州のコミュニティカレッジ(公立二年制大学)に通い始めた。不安で不安でしかたなく、日本を発つ1週間前からご飯がのどを通らなくなり、出発の日には見送りに来た家族と車いすバスケの仲間の前で号泣した。それほどナーバスになりながらも留学を決意したのは、マイクさんの存在があった。
13歳の時にキャンプで出会ってから、マイクさんはことあるごとにメールを送ってきた。そこにはいつも、近況とともに、「イリノイ大学に来ないか?」と書かれていた。最初にキャンプで誘われた時は、「口の上手いおじさんだな」と思っていた香西さんだが、何度も何度も声をかけられているうちに、イリノイ大学でプレーしたいという気持ちが募ったのだ。
香西さんが憧れた車いすバスケ界のカリスマ、カナダ人のパトリック・アンダーソン選手が、イリノイ大学の出身で、マイクさんの教え子ということも背中を押した。
「10年後が楽しみで賞」の10年後
香西さんはコミュニティカレッジで英語を学びながら、イリノイ大学への編入を目指した。その間も、マイクさんが指導するイリノイ大学の車いすバスットボール部の練習に参加した。
イリノイ大学は全米屈指の強豪チームである。しかし、香西さんには13歳の頃から大人に混じってプレーしてきて、高校1年の時には23歳以下の日本代表に選ばれたという意地がある。初めて同世代だけのチームに入った香西さんは「こいつらには負けねえ」と思いながらプレーしていた。まだ英語力が低く、監督やチームメイトがなにを言っているのかもよくわからない環境で、自分のテクニックを見せつけて、必死にアピールした。
なんか違う……と思ったのは、3カ月ほど経った時のこと。13歳の頃からずっと楽しくて続けてきた車いすバスケなのに、楽しめなくなっていた。なぜだろう? 相談する相手もおらず、ひとりで悶々と考え続けた末にたどりついた答えは、それから今に至るまで、香西さんを支える気づきとなった。
「あいつがこうするなら俺はこうだとか、あいつにできるなら俺にもできるとか、周りと比較ばかりしている自分がいたんです。だから、周りじゃなくて、過去の自分と比較してみようと思って。そうしたら、なんだ、俺もけっこう上達してるじゃないか、と思えたんですよね。英語もそうだし、練習でもできることが増えた。それから気持ちが前向きになって、バスケがまた楽しくなりました」
2010年1月、イリノイ大学に編入。2年半みっちり英語とマイク監督の指導に浸った香西さんはすぐに主力となり、その年の全米大学選手権優勝に貢献した。奇しくも、マイクさんから「10年後が楽しみで賞」をもらって10年後のことだった。
怒鳴っては悩むリーダーシップ
全米大学選手権で準優勝した次のシーズンを経て、大学3年生になった2012年からはキャプテンに就任する。チーム事情もあり、「上級生、同級生がほとんどいなかったから」と香西さんは言うが、アメリカの大学でキャプテンを任される日本人は、健常者、障がい者を問わず、そういない。マイク監督からは、「リーダーを経験するのは、日本代表でも役立つだろう」と言われていた。
「アメリカの大学バスケのナンバーワンコーチ、ジョン・ウッデンの本をマイクから渡されました。その人は、ピラミッドを逆さにした組織の一番下にキャプテンがいて、なににでも率先して動くのが理想のリーダーシップだと書いていました。でも、僕にその通りにしてほしいということではありません。マイクはよく『リーダーシップはみんながみんな同じである必要はない』と言っていました。よく3、4年生を集めて、自分が本で読んだり聞いたりしたリーダーシップの知識をシェアして、みんなの意見を聞いていましたね」
それでは、香西さんのリーダーシップとはどんなものだろうか?いかにも温厚な今の姿からは想像できないが、意外なことにキャプテンを務めた2シーズン、香西さんはチームメイトをよく怒鳴っていたそうだ。もちろん、怒鳴った後のフォローも忘れなかったが、「これが俺のリーダーシップなのか?俺らしいリーダーシップとはなんなのか……」という自問自答が止むことはなかったという。
それは今も続く答えのない問いだが、少なくとも、アメリカの大学で車いすバスケに携わる人にとって、香西さんの存在感は飛び抜けていたのだろう。先述したように大学3年と4年時に、全米大学リーグのシーズンMVPを受賞している。香西さんにとって特に印象深かったのは、4年生の時の受賞だ。
「最後の年は、4位で大学選手権を終えたんです。それなのにMVPをもらったから、びっくりしました。自分としては反省することがいっぱいあったけど、ちゃんと見てくれてたんだなって嬉しかったですね」
大学の先輩からのメッセージ
イリノイ大学の先輩には、プロとしてヨーロッパのリーグで活躍している人が何人かいる。在学中、フェイスブックなどを通してその様子を見ていた香西さんは「俺もプロになろう」と思うようになっていた。
しかし、その道はまったく整備されていなかった。例えば、八村塁さんのようにアメリカの大学バスケで活躍した選手は、NBAが主催する「ドラフト」でプロチームから指名を受けることがプロへの一歩となる。
一方、車いすバスケにはそもそも「プロリーグ」がない。ドイツ、スペイン、イタリアなどでクラブチームのリーグ戦が開催されているが、プロもいればアマチュアもいるセミプロリーグというのが現状だ。各国の代表選手がプロとして名を連ね、レベルの高いリーグであるのは間違いないが、ドラフトのようなシステムはないし、有望な選手を発掘するためのグローバルのスカウト網もない。
プロになりたければ、自力で切り拓くしかないのだ。それは、アメリカの大学で2年連続リーグMVPを受賞したプレイヤーでも変わらない。香西さんは大学卒業後、ヨーロッパの4、5チームに自らフェイスブックやメールでメッセージを送った。
ところが、メッセージのやり取りをしても話が進まず、ついにどこからも連絡がない状態が2週間続いた。その時にはさすがに「もう無理かも。日本でどうにかすることも考えなきゃいけないな」と考え始めていた。
突破口は、意外なところから開けた。
「僕がイリノイのコミュニティカレッジに通っていた1年目、大学4年生だったドイツ人の女子選手がいるんですけどね。卒業後にドイツのハンブルグにあるチームに所属していた彼女から、連絡があったんです。『ヒロ、チーム探してるって聞いたけどうちのチームに興味ある? 興味あるならヘッドコーチの連絡先を教えるよ』って。正直、その人の存在はすっかり忘れていたんだけど、ぜひ教えて! とお願いしました」
それから話はとんとん拍子に進み、2013年9月、ドイツリーグ「ブンデスリーガ」に所属するクラブチーム「BG Baskets Hamburg」(以下、ハンブルグと表記)とプロ契約を締結した。
灯台を見失って。
東京都が運営するパラスポーツのファンサイト「TEAM BEYOND」によると、「障がい者スポーツの先進国」のドイツで最も人気があるのが車いすバスケで、「ジュニアを含めると約180ものチームが存在し、競技人口は2500人にのぼる」と書かれている(日本は競技人口645人、チーム数73)。
そのトップリーグ、ブンデスリーガは10チームで構成され、1チームに約10人の選手が所属するが、プロは一握り。選ばれた者だけが、その地位にとどまることができる。シビアな挑戦に臨む香西さんには、ひとつ懸念があった。
「僕にとっての一番のチャレンジは、マイクから離れることでした。コミュニティカレッジを含めると6年間一緒にやってきましたが、いつもマイクと練習や試合を振り返っていたので、それがなくなった時に成長できるのか不安でしたね。試合の動画をマイクに送って見てもらうことはできたと思うけど、それはしませんでした。自分でどれだけやれるか、まずはひとりでやってみようって」
調子が良い時も、悪い時も、マイク監督のアドバイスは腑に落ちた。振り返れば、13歳の時からいつも気にかけ、進むべき方向を指し示してくれた恩師と離れたのは、大海原で灯台を見失った船長のような気分だったろう。
ひとりで練習や試合の映像を見返していると、気づけばボーっと眺めている自分がいた。そのたびに、ダメだダメだ、と巻き戻して集中した。その間ずっと、「マイクだったらなんて言うだろう」と考えていた。
各国の実力者が集まるチームでの振る舞いにも、神経を使った。同世代のアメリカ人しかいないイリノイ大学と比べると、ハンブルグは多国籍で、それぞれの考え方やスタイルがある。そのなかで相手のプライドを傷つけないようにコミュニケーションを取らなければならず、言葉選びに慎重になった。
移籍を選んだ理由
こういった課題とひとつひとつ向き合い、ハンブルグでは1年目から得点ランキング3位に入るなど確固たる地位を築いていた香西さんは、2017年、ヨーロッパでもトップクラスのチーム「RSV Lahn-Dill(アールエスブイ・ランディル)」に移籍した。これも自らランディルに打診し、交渉の末に勝ち取ったステップアップである。これは、2020年の東京パラリンピックを見据えてのことだった。
2008年、19歳の時に北京パラリンピックに出場した香西さんは、ロンドン、リオと大舞台で戦ってきた。学生だった北京、ロンドンと違い、プロとして迎えたリオでは副キャプテンを任され、エースとしての活躍を期待された。しかし日本代表は12カ国中9位に終わった。
「自分の判断、スキルのなさで負けたところがすごく大きいと思いました。バスケのIQが低いし、スキルも低い。僕らが目標にしていた6位以上の道が閉ざされた時に、東京でメダルなんかあり得ない、このままじゃ絶対にダメだと思ったんです」
強烈な危機感を抱いた香西さんは、リオパラリンピックの後、個人でコーチを雇い、メンタルトレーニングとフィジカルトレーニングを始めた。そして、自分を鍛え直すために選んだのがランディルだ。
「契約の時、払うお金はあるけど、試合には出られないかもしれないと言われました。それはどこのチームに行ってもそうだと思ったから、そんなことは気にしないでください、僕は僕で頑張りますと伝えました」
1年目、クラブ側の予想をいい意味で裏切り、すぐにポジションを掴んだ香西さんは、ブンデスリーガ2位、ドイツカップ優勝、ヨーロッパクラブ選手権4位という好成績に貢献した。
今年5月に終了した2年目のシーズンも、チームはブンデスリーガ2位、ドイツカップ準優勝、ヨーロッパクラブ選手権3位と上々の成績を収めたが、監督が代わったこともあって香西さんは思うようにプレーできない日が続いた。香西さんは、この対照的な2年をポジティブに捉えている。
「幸運なことに高校生からずっと試合に出てきたので、試合に出られない人の悔しさを忘れていました。2シーズン目の最初は、こんなことしてるなら帰国した方がいいんじゃないか、日本にいる方がもっとトレーニングができると思ったぐらいです。でもチームに残ったことでベンチでの過ごし方、ワンプレー、ワンプレーの大切さを改めて学びました。キャプテンのマイク・ペイというアメリカ人の選手と2シーズン、一緒にプレーして、視野の広さやリーダーシップを身近に観察できたことも大きかった。バスケットIQ、メンタルともに成長できたと思います」
不動心とは何ぞや?
通常であれば今年も秋からブンデスリーガが開幕するが、香西さんはもうドイツには戻らない。1年後に迫った東京パラリンピックに向けて、日本の所属チーム「No Excuse」から挑戦することを決めた。
トップレベルの戦いから離れることに不安はありませんか?と尋ねると、「メリットデメリットがありますね」と言った。確かにドイツにいれば、毎週末の試合で自分の実力を測り、軌道修正できる。しかし、試合に出られなければ、試合勘が鈍ったり、コンディションが落ちるリスクもある。日本に戻ればドイツのようなハードな試合がなくなる一方で、スケジュールに余裕ができて自分のトレーニングに時間を割くことができる。どちらが良いか、悪いかは、誰にもわからないのだから、大切なのは東京パラリンピックの車いすバスケが開幕する8月末までにどれだけ妥協せず、質の高い時間を過ごすかだろう。
香西さんは「いま、僕が東京に向かって目指しているのは不動心です」と微笑んだ。
「不動心とは何ぞや?なんて考えながら車を運転していたら、神社からお坊さんがポルシェで出てきて、人間である以上、不動心なんてあるのかと思いましたけどね(笑)。でも最近は、感情が揺れるのは当たり前のことと捉えて、そのブレをなるべく小さくするように努力しています。集中って、心理学的には注意力の配分というそうです。その注意力をすべて日本代表のバスケの戦略、戦術に充てるというふうにしたら、感情が揺れ動く部分が減るのではないかと思っています。そうすることで、すべてをエネルギーに変えたい」
香西さんは、恩師のマイク監督の言葉を守り、12歳から一歩ずつ、全力で階段を登ってきた。それは、自らの潜在能力を極限まで引き出し続けながら歩んできた道のりでもある。20年目となる来夏、その階段の高みからはどんな景色が見えているだろうか。車いすバスケ日本代表チームは、東京パラリンピックで史上初のメダル獲得を目指す。
-撮影場所
オリエンタルホテル 東京ベイ 日本料理 美浜
ライタープロフィール
川内イオ
1979年生まれ。大学卒業後の2002年、新卒で広告代理店に就職するも9ヶ月で退職し、03年よりフリーライターとして活動開始。06年にバルセロナに移住し、主にスペインサッカーを取材。10年に帰国後、デジタルサッカー誌、ビジネス誌の編集部を経て現在フリーランスエディター&ライター&イベントコーディネーター。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンターとして活動している。稀人を取材することで仕事や生き方の多様性を世に伝えることをテーマとする。
過去記事
・ダメ学生から世界王者に。賞金1億円を手にしたプロゲーマー・ふぇぐの逆転人生
・チーズ職人・柴田千代。月イチ営業で目指す世界の頂。