マカロンの知られざる歴史
ピンク、グリーン、イエロー、オレンジ……カラフルでコロンとした見た目がかわいい焼き菓子、マカロン。ここ数年、日本でも人気の洋菓子のひとつだけど、発祥の歴史を知っていますか?日本では、フランス発のパティスリーが取り扱っていることが多いから、フランスからきたお菓子だと思っている人も少なくないだろう。でも実は、イタリア生まれ。
16世紀、イタリアのメディチ家に生まれ、政略結婚でフランス国王アンリ2世に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスは、イタリアの菓子職人や料理人を伴ってフランスにやってきた。その時に持ち込まれたのが、アーモンドを使った素朴な焼き菓子「アマレッティ」。フランスのパティシエがこれに手を加えて、現在のマカロンに姿を変えたそうだ。
2013年から3年間、会員制の高級レストランでシェフパティシエを務めていた鈴木文さんは、デザートのメニューを考えてきたときに調べ物をしていて、たまたまマカロンの歴史を知った。その瞬間、「見た目や味のことばかり考えて、こういうことを知らないってどうなんだろう?」と、自分の仕事ぶりを振り返って反省した。
これをきっかけに、なじみのお菓子の由来や背景を調べ始めると、自分が知らないお菓子が山のようにあることに気づいた。
「世界のお菓子を学びたい」
好奇心がふわふわのホイップクリームのように膨れ上がった鈴木さんは仕事を辞め、2016年1月、夫と一緒に成田空港に向かった。「世界の郷土菓子をつくる旅」が、始まった。
数えきれないほど焼いたチーズケーキ
鈴木さんがお菓子を作り始めたのは、立教大学の英米文学科の1年生の時。特にお菓子が好きだったわけでもなく、実験するような気分だった。
「もともと理系で、特に理科の実験が好きでした。お菓子作りも、素材を混ぜたり、焼いたら膨らんだりして、そういう科学的な変化が楽しかったんですよね」
学生時代、一番はまったのは、ベイクドチーズケーキ作り。作ったケーキはひとりで食べきれないので家族や友人に配った。みんなが「おいしい!」と言ってくれたけど、あまり自分に自信を持てない性格だったから、「作った本人にまずいっていう人はいないよな。本当においしいと思ってるのかな」と疑念が募り、「もっとおいしいものを」と研究に励んだ。数えきれないほどのベイクドチーズケーキを焼き、周囲に振る舞い続けた。
▲ヌガーの原型となった中東生まれの「ハルヴァ」をアレンジしたお菓子。
ただ、お菓子作りはあくまで趣味だったので、仕事は一般企業を志望。就職活動をするなかで、顧客やコラボレーションする作家との丁寧なコミュニケーションを重視するアメリカの高級老舗百貨店「バーニーズ・ニューヨーク」の姿勢に惹かれ、2007年、日本支社に就職した。
若手社員の仕事は、店舗での販売。鈴木さんはにこやかで人当たりがいいので、「けっこう売りそうですね?」と尋ねたら、「私ですか? ぜんぜんですよ」と笑った。
「接客は大好きだったんですけど、自分でもびっくりするくらい売れなくて。お客さんはたくさんいたのに、みんな私と話だけして帰っちゃうんですよ。それがずっと続いて、なんで売れないんだろうねって上司と話をして気づいたのは、お客さんに書く手紙にしても、お店での会話にしても、セールスと真逆のことをしていたこと。私自身が消費するより物を大切にして長く使うほうがいいと思っていて、それが言葉や態度に出ていたんです」
アポなしアタックナンバー1
……という正直すぎる接客で、営業成績はサッパリ。一方、プライベートでは趣味のお菓子作りが続いていて、職場の人たちにも「おいしい!」と言われていた。それでも「気を使って褒めてるだけ」という疑いは晴れない。身近な人にどれだけ食べてもらっても正直な感想が得られないともどかしく思っていた鈴木さんは、ある日、ふと思った。
「みんながおいしいって言う私のお菓子は、いくらで売れるんだろう?」
お金を払って買う人がいたなら、そのお菓子には価値があるということになる。自分のお菓子に値が付くのか知りたい! という思いが頭から離れなくなった鈴木さんは、大胆な行動をとった。作ったケーキを持ってカフェを訪ね、「私のケーキを売ってくれませんか?」とアポなし営業を始めたのだ。
当然のごとく、は? あなた誰? という冷たい反応が返ってきたが、それでもめげず、休日がくるたびにカフェを巡った。その数は、10軒を超えた。すると、そのうちの2軒、「うちに置いてあげるよ」というカフェが出てきた。1軒は友人の紹介先で、もう1軒は縁もゆかりもないカフェだった。ついた価格は、一切れ500円。ひとつ売れると、そのうちの数パーセントが鈴木さんに支払われる。
職場は10時出社だったので、退社後にケーキを焼き、朝、カフェに届けてから仕事に行くというサイクルになった。
「私のケーキにお金を払ってくれるお店があって、ケーキが売れるとお店の売り上げにもなるということがすごく嬉しかったですね。もっとおいしいケーキを作りたいと思って、仕事以外の時間をほとんど使って、プロ向けの本を読み漁って、研究していました」
パティシエとして塩味の船出
この時に読んだ書籍には、見たことがない単語や作り方がいくつも載っていて、もっと詳しく知りたいという気持ちが沸き上がった。同時に、気づいた。隙間時間にひとりで作業していても、上達するには限界がある。
2010年、バーニーズ・ニューヨークを辞めて、パティシエを目指すことに決めた鈴木さんは、転職活動を始めた。そもそもパティシエは求人自体が少なく、どこも即戦力を求めているので、未経験者を現場に受け入れる店はほぼない。
それでも鈴木さんは、遠回りはしたくないという思いから、「入社初日から厨房に立たせてくれるお店」にこだわった。当然のように軒並み断られるなか、まさに当たって砕けろで問い合わせを続けると、1軒だけ、当時、広尾にあったラ・プレシューズというパティスリーが「そんなに頑張るって言うならいいよ」と採用してくれた。
パティシエ・鈴木文としての歩みはまったく甘いものでなく、むしろ塩味だった。パティシエを目指す場合、製菓の専門学校を卒業して、ひと通りの知識と技術を身に着けてから働き始めるのが一般的なところ、鈴木さんはゼラチンの溶かし方すらわからない。年下の同僚たちに教えてもらおうとしても、役に立たない素人に時間を割いてくれる人は少なく、技術は「見て盗む」しかなかった。
仕事は朝5時から始まり、終わるのは夜。帰宅してから、その日に学んだことの復習をしようにも、憶えることが多すぎて、まとまらない。どうしてもわからないことは、唯一の休日だった日曜日、シェフに電話をして教えを請い、それから自宅で練習した。
なにもできない自分がふがいなく、悔しくて、家に帰ってからよくひとりで泣いた。朝になっても気が晴れず、乗換駅の日比谷で一度下車し、早朝の日比谷公園で気持ちを落ち着けてから出勤したのも一度や二度ではなかった。
パティスリーとホテルの違い
それでも挫けず仕事を続けているうちに、だんだんと要領をつかめるようになってきた。気持ちと時間に余裕ができると、少しでも刺激やヒントを得ようと、ホテルのレストランを巡ってデザートを食べるようになった。
パティスリーで作るケーキは、一枚の小さなプレートの上で完結するパティシエの作品である。一方、ホテルのレストランのデザートは、食事との相性を考えたうえで、締めの一品としてシェフの世界観を伝える役割も担う。
レストランのデザートに表現としての広がりを感じた鈴木さんの胸中に、また「学びたい」という欲が湧いてきた。このスイッチが入ったら、もう後戻りはできない。
「パティスリーで2年半働いて、基礎は学んだ。今度はホテルのレストランで働きたい」
新たな働き口を探し始めてすぐに、簡単にはいかなそうだと気づいた。「レストランで勤務経験のない場合、ほぼ未経験とみなす」というところが大半だったのだ。そんなことを気にするタイプではない鈴木さんは、気になるホテルに次々と履歴書を送った。
そのなかで唯一、「ケーキ屋さんでやってきたなら頑張れるかもしれない」とキャリアを認めてくれたのが、5つ星ホテル、ザ・ペニンシュラ東京のフレンチレストランだった。そこで、フランス人の料理長と日本人のシェフパティシエのもとで、働くことになった。
活気に満ちた厨房
迎えた初日、同じパティシエでありながら、パティスリーとは似て非なる仕事を目の当たりにして、「またゼロからスタートだな」と気合を入れなおした。
「レストランでは3つ以上のものを同時に口に入れたときのバランス、歯応え、香りを総合的に考えなきゃいけないんです。そのうえで、お客さんの目線や食べやすさなども意識する必要があるので、視野を広く持たないといけません。お皿の上で表現するっていうことが、ひとつのお菓子に向き合うパティスリーといかに違うのか、実感しましたね」
職場の雰囲気も、まるで違った。広尾のパティスリーの静かでストイックな雰囲気とは似ても似つかないほど、活気に満ちていた。
フランス人の料理長は、突然姿を消して皇居にランニングにいくような自由人で、気分がいいときは歌いながら料理をする。その料理長からなにか指示が出ると「ウィ ムッシュ!」と全員が返事をする。メインの料理が出たよ! と言われたら、そこから逆算して一皿ずつデザートを盛り付ける。そこには、チームとしての連帯感があった。
形が崩れたり、提供するのが遅れたりするのはもってのほかという緊張感のなかで、デザートを美しく仕上げていくことにも、やりがいを感じた。料理から学ぶことも多かったと振り返る。
「チャレンジがよしとされた職場で、おいしいかわからないけど試してみようということで、いろいろ新しいデザートを作りました。料理人しか使わない食材ってたくさんあって、ハーブの使い方も教わりましたし、お醤油とかお味噌みたいな調味料からお菓子を作れることも学びました。楽しかったな」
シェフパティシエを目指して
ここで働いているうちに、今度は「自分でデザートのメニューを考えたい」と思うようになった。それができるのは、シェフパティシエのみ。ザ・ペニンシュラ東京でそのチャンスが巡ってくるのを待つよりも、自分で動き、チャンスを掴めばいい。
とはいえ、レストランのシェフパティシエの求人は珍しい。誰かがそのポストに就いていないとレストランを運営できないし、レストランではシェフパティシエ以上のポジションはないから、そうそう空きは出ないのだ。
それでも根気よく探していると、ある高級フレンチレストラン(会員制につき店名非公表)がシェフパティシエを募集しているのを発見。応募をしてみたら、見事に合格した。
シェフパティシエの仕事は、1年に数回変わる食事のメニューに合わせてデザートを考えることと、それをレシピにしてスタッフたちが作れるようにすること。もちろん、自分も厨房に立って、最前線で手を動かす。そこに、スタッフの労務管理も加わる。
厨房でデザートをひたすら作っていたザ・ペニンシュラ東京時代よりも仕事は複雑でよりハードになったが、自分のアイデアがメニューに載り、お客さんが楽しんでくれることに、喜びとやりがいを感じていた。
それでも、「もっと知りたい」「もっと学びたい」という思いを抑えられないのが、鈴木さんらしい。冒頭にも記したように、マカロンがイタリア発祥だと知ったのを機に、好奇心に火が付いた彼女は、休日を利用しては海外へ出かけ、現地のお菓子を学び、そこで作ることをライフワークとするようになった。そうして訪ねた国は、20カ国以上にのぼる。
そのうちに、休日を利用した数日間では物足りないと感じるようになった。もっと時間をかけて海外を巡りながら、お菓子の文化を学びたいという思いが募る。そしてついには、ほとんどのパティシエが目指すであろう、高級フレンチのシェフパティシエという地位に未練もなく、夫と一緒に「世界の郷土菓子をつくる旅」に出た。この時、ちょうど30歳だった。
アポなしアタックナンバー2
2016年1月より、鈴木夫妻は約1年かけてアメリカ、中南米、アフリカ、ヨーロッパ、中東、アジアの37カ国を巡った。新しい町に入るたび、鈴木さんはパティスリーを探し、ピンとくるお店があると「一緒にお菓子をつくらせてください!」とその場で申し込んだ。
アポなしアタックはハードルが高く感じるが、まだパティシエにもなっていない22、23歳のときから、カフェにケーキを売り込んできた鈴木さんだから、それほど難しいことではなかったのかもしれない。この旅でアタックに成功したのは、50回以上。そのなかでも印象的だったのは、キューバの首都ハバナのパティスリーだという。
写真提供:鈴木文
社会主義国家のキューバは、長年アメリカから経済制裁を受けていることもあり、経済的には未発達で、食糧事情もよくない。例えば品切れでレストランに入れないこともしばしばあるし、卵の配給には行列ができる。
この苦しい状況のなか、ぜいたく品であるお菓子を作るパティスリーは少なかったが、一軒だけ多くの地元客でにぎわう店を発見。思い切ってアタックしたところ、オーナーシェフのミゲルさんが快諾してくれたそうだ。
教えてもらったのは、フランス発祥のお菓子「ミルフィーユ」。鈴木さんによると、キューバは16世紀からスペインの植民地だったが、19世紀から20世紀にかけて、キューバに渡ってきた移民のなかにフランス人も多くいたこと、隣国のハイチはフランスが宗主国だったことなどから、キューバでミルフィーユが入ってきて定着したと推測される。
写真提供:鈴木文
「ミゲルさんは、キューバが少しずつ市場経済の導入を始めた2008年頃、手に職をつけようと思い立って、製菓学校に通ったそうです。それで、2010年に自営規制緩和が始まったタイミングで、お店を開いたと聞きました。今は従業員も3、4人いて、しっかり家族を養っていると聞いて、キューバの食糧事情を考えるとすごいなと思いました。ミゲルさんのミルフィーユはちゃんとヨーロッパの歴史を受け継ぎながら、現地のエッセンスを加えていて、さすがにおいしかったですね」
ちなみに、現地でミルフィーユは、スペイン語で結婚していない女性の敬称に使われる『セニョリータ』と呼ばれているが、キューバ人にも理由はわからないそうだ。
写真提供:鈴木文
中近東から南米に渡ったお菓子
この旅で最も鈴木さんの心をとらえたお菓子は、「アルファフォーレス」。練乳を使ったキャラメルクリームを厚めの焼き菓子でサンドしてあるシンプルなお菓子だが、南米のいたるところで同じレシピ、同じ形で売られていることに気づいて、興味を持った。調べてみると、壮大な歴史が背景にあった。
「もともと中近東で生まれたお菓子で、アルファフォーレス(Alfajores)」という名前も、アラビア語の『はさむ』という言葉に由来しているんです。8世紀にイスラム帝国軍がイベリア半島に侵攻した時にスペインに持ち込まれて、その後の大航海時代に南米に伝わったと聞きました。スペインから南米に渡ったお菓子はたくさんあるんですけど、名前を変えたり形を変えたりってよくあることなのに、アルファフォーレスは原型そのままなんですよ。しかも、こんなに南米全土で愛されているお菓子ってほかにないから、なんでだろうってずっと気になって」
旅をしている間に、この疑問に対する鈴木さんなりの答えが浮かんだという。それはぜひ本人から聞いてほしい。1000年以上かけて中近東からスペイン、南米にたどり着き、今も形を変えずに愛されているお菓子の歴史は、僕が好きなテレビ番組『世界ふしぎ発見』に出てきそうな話だ。
ほかにも、ナミビアの砂漠の休憩所にあるパティスリーで売られていたアップルクランブル、パティスリーだらけのエルサレムで作った伝統的なお菓子ハルヴァなど、語りつくせないほどたくさんのお菓子の思い出とともに、2016年12月、鈴木夫妻は帰国した。
カフェで気づいたこと
「世界の郷土菓子をつくる旅」の最中、鈴木さんは「旅するパティシエ」として情報を発信していた。帰国後、その経験を活かした活動を模索することになる。
2017年9月、豊島区にあるゲストハウスの一階にある喫茶スペースを間借りして、「世界のおやつ」をテーマにしたカフェをオープンした。すると、珍しい、見たこともない世界の郷土菓子を求めて、お客さんが来るようになった。鈴木さんは、旅先で仕入れたお菓子の歴史やエピソードを伝えようと張り切った。ところが、お客さんによっては、鈴木さんの話に興味がなさそうな人もいた。あるいは、コーヒーだけ飲んで、お菓子を頼まない人もいた。あれ、なんでだろうとモヤモヤしているうちに、ハッとした。
「あの時、私は前のめりになってたから、コーヒー一杯だけしか頼まない人には、お菓子は頼まないんだ……って悲しくなってたし、お菓子を食べてくれるお客さんには、いろいろ説明したくてしょうがなかった。でも、人がカフェに来る理由って自由なんですよね。コーヒー一杯だけ飲みたい人もいるし、静かに食べたい人もいるんですよ」
カフェに来てくれるお客さんとの会話は楽しかったし、自分のお菓子に興味を持ってくれるのも嬉しかった。でも、自分がやりたいことを実現するのは、カフェという方法ではないかもしれないと思うようになった。じゃあ、どうしたらいいのかと考えても、わからなかった。
そんな時、コロンビア大使公邸で開催されたメラルドマウンテンコーヒー上陸30周年記念イベントで、お菓子のケータリングの依頼が入った。合わせて、高品質でおいしいのに日本ではあまり知られていないコロンビアのカカオをもっと世に広めたいという相談を受けた。そこで鈴木さんは、コーヒーと合うコロンビアのお菓子を創作。イベントでは、旅で訪ねたコロンビアの紹介と合わせてお菓子の背景をプレゼンした。これが、クライアントから思いのほか好評だった。
写真提供:鈴木文
お菓子のストーリーを伝える
同じ頃、アパレルブランド「トゥモローランド」のバイヤーからも問い合わせがあった。アフリカの雑貨をポップアップしたい、でもアフリカはまだまだニッチだからそれだけじゃ人が来ない、なにか協力してもらえないか? という内容だった。
話を聞くと、アパレルメーカーがこだわりを持ってストーリーを伝えようと思っても、お客さんにとっては、かっこいいかどうか、かわいいかどうかが先に立って、なかなか関心を持ってもらえないという悩みがあった。
そこで、鈴木さんはブランドのコンセプトを表現するようなお菓子があれば、お客さんの興味を惹くきっかけになると考え、アフリカのエッセンスを取り入れたオリジナルスイーツを作ることを提案。レモンのような酸味があるバオバブの木のパウダー使ったカラフルな和菓子と、アフリカ原産のカカオを使ったチョコレートのケーキを作った。このお菓子は、色鮮やかなアフリカの雑貨とともに、トゥモローランドの店頭に並んだ。
写真提供:鈴木文
この2つの仕事は、鈴木さんにとって、これこそ自分がやりたかったことだという手ごたえがあった。世界一周したことで、現地のリアル、郷土菓子のレシピや歴史を知っているからこそ、クライアントのニーズに合わせたコラボができるし、クライアントの課題解決の手助けもできる。
なによりも、ただ「世界の郷土菓子」を再現するのではなく、これまでの旅の中での学びに、パティシエ・鈴木文としてのエッセンスを加え、自分にしかできない新しい提案とお菓子を生み出すことに挑戦していきたいと考えるようになった。
鈴木さんの背中を押すように、最近では、企業や自治体から声がかかることが増えた。ブランドのプロモーションやコンセプトに沿った商品開発を通じて、いま、「世界のおやつ」はどんどん広がりを見せている。
新たな旅の始まり
「パティシエとして、職の広がりを感じています。これまでは、ひとついくらでお菓子を売るか、レストランの厨房でデザートを作るしかなかった。でも、それってすごくもったいないと思うんです。お客さんに伝えたいこともあると思うし、もっと話をするべきだと思います。私はお菓子にまつわるストーリーを話すのが好きだし、企業や自治体と組むことで、違った切り口でお菓子を見ることができて、自分の中でも発見になっていますね。コミュニケーション重視のアパレルで働いていたこともあるし、今までの人生がいろいろな形で繋がってるって感じます」
社会人になってから、ほぼ3年ごとに職場を変えてきた鈴木さん。帰国して、今年で丸3年。これから、どこへ向かうのだろうか?
「基本的には自信がないので、学んでないと不安なんです。だから、旅行中、海外のパティスリーでお菓子作りを習ってる時間はすごいエキサイティングでした。日本に帰ってきてから、ひとりでずーっと作っていることに限界を感じていて。日本でもどんどん学んでいきたいし、面白いことをしたいですね」
今、池袋の近くの民家を改装して、アトリエにする計画が進んでいる。そこはパティスリーやカフェではなく、お客さんとコミュニケーションをとりながら、世界のおやつを楽しむ場所にしたいそうだ。そこからまた、新しい冒険が始まる。
ライタープロフィール
川内イオ
1979年生まれ。大学卒業後の2002年、新卒で広告代理店に就職するも9ヶ月で退職し、03年よりフリーライターとして活動開始。06年にバルセロナに移住し、主にスペインサッカーを取材。10年に帰国後、デジタルサッカー誌、ビジネス誌の編集部を経て現在フリーランスエディター&ライター&イベントコーディネーター。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンターとして活動している。稀人を取材することで仕事や生き方の多様性を世に伝えることをテーマとする。著書「農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦 (文春新書) 」
過去記事
・チーズ職人・柴田千代。月イチ営業で目指す世界の頂。
・ジョエル・ロブションの言葉を胸に。フレンチの世界大会を制したシェフ、関谷健一朗