異例づくめの日本一
「田舎でも、女性でも、個人でも、この賞を獲ることができると証明できたことが、私の一生の誇りです」2017年11月1日に開催された「第11回ALL JAPANナチュラルチーズコンテスト」の最終審査会。国内のチーズ生産者73社から161作品の応募があったこのコンテストで、最高賞にあたる農林水産大臣賞に輝いた柴田千代さんはこうスピーチして胸を張った。
中央酪農会議の主催で2年に1度開かれるこのコンテストは、日本一のチーズ職人を決める由緒ある大会として知られる。1998年2月にスタートした第1回から19年の歴史のなかで、柴田さんは極めて異色の存在だった。
まず、女性職人として初めて最高賞を獲得したこと。もうひとつ、2014年12月に「チーズ工房【千】sen」を立ち上げてからわずか2年10カ月での最高賞受賞も、史上最速だった。さらに、工房は柴田さんがひとりで運営しており、史上最もミニマムな規模の経営者だった。しかもこの時、二足の草鞋を履いていた。ある微生物の研究所で、派遣社員として土壌細菌の研究・遺伝子解析を担っていたのだ。
受賞から1年半。日本一の栄冠は自らが歩む道なき道を照らす灯台となった。
「女性ひとりでは作る量も限られるし、一等地に店を構えるのも難しい。でも、質とストーリー性、付加価値の高いチーズを作ってブランド化できれば、地方で、身の丈に合った規模で女性ひとりで勝負できると証明したいんです。その一歩として、日本で一番小さい工房の女性職人である自分が日本一を獲ることにこだわっていたので、受賞の瞬間は本当に気持ち良かったですね!」
営業日は月に1日
千葉県の大多喜町。山林に囲まれた静かな集落にある古民家で、柴田さんは「チーズ工房【千】sen」を営んでいる。2014年12月のオープン以来、営業日は月に1日のみ。よく定休日と勘違いされるそうだが、「営業日」が月に1日、第1日曜日。もともとバイオテクノロジーセンターで仕事をしていたこともあってのことだったが、今年3月に勤め先を辞めた後も、月に1日を貫く。
「よく、営業日を増やすんですかって聞かれるんですけど、ノンノンノン!ここは職人がモノづくりをする場所ですからね。私ひとりしかいないので、常に電話が鳴ったり、お客さんが出入りするような環境だと、チーズを作れなくなっちゃいます」
ノンノンノン!と言いながら人差し指を左右に振る柴田さん。笑顔を絶やさないおおらかな雰囲気の彼女のなかに、「常識」や「普通」に抗う熱い気持ちが宿る。
「月イチの営業で工房を始めた時、業界の人にはいろいろ言われました。そんなの無理だよ、潰れるよ、そういう風に二足の草鞋でやってるからいつまでも相手にされないんだって。さすがに、カッチーンときましたね。3年以内に必ず日本一を獲りますって言ったんだけど、できるわけないじゃんって爆笑されて(笑)」
月曜から金曜まで研究所の仕事で生活費を稼ぎながら、平日は朝と晩に1日3時間、加えて週末は丸1日、ひたすらチーズの開発に打ち込んだことで宣言通りに日本一となった。その名声によって、今では月に一度の営業日に500個のチーズが売れるようになった。彼女のチーズを店で出したいという料理人も年々増えていて、千葉や東京のレストランなどにも卸している。
常識外れのチーズ
この春に兼業を辞めたのは、設備投資も落ち着き、これなら月に1日の営業でも地に足をつけて生きていけると判断してのこと。でも、目標はまだまだずっと彼方にある。柴田さんによると、500円のチーズの約半額が職人の取り分になる。1000個売って、ようやく25万円。でも、女手ひとつで1000個のチーズを作って売るのは現実的ではない。
工房を立ち上げた時の「数ではなく質で勝負する」という原点に立ち返り、彼女は今、素材からパッケージまですべてにこだわった、ひとつ5000円、5万円のチーズを作ろうとしている。常識外れのチーズが売れることを証明できれば、全国の職人の希望の星になることができると考えているのだ。いずれは弟子を取り、暖簾分けしようと考えている。
また、彼女は手仕事の大切さや命の大切さを子どもたちに伝えたいと、工房を開いてから毎年、ゴールデンウイークに50人の子どもたちを招待して、モッツアレラチーズを手作りする「寺子屋」を開催している。これを20年続けて、工房の名前と同じ数、合計1000人の子どもたちにチーズ職人の仕事の魅力を伝えようという取り組みだ。「1000人の卒業生の1人か2人でも、次の世代にその時代に合う寺子屋を開催してくれれば私の挑戦は達成です!」と話す。
柴田さんの話を聞いていると、自分の技術を極限まで高めることに注力する、いわゆる「職人肌」というよりも、「開拓者」という言葉がしっくりくる。女性としての生き方、職人としての働き方の選択肢を提示し、チーズの可能性を拡げる先駆者だ。
そう在るためには、越えなければいけない壁がいくつも立ちはだかる。でも、彼女に悲壮感はない。むしろ、楽しんでいるように見える。そこには、どんな想いがあるのだろう。
未来に受け継ぎたい発酵食品
きっかけは、高校時代の小論文の授業だった。幼い頃から食べることが好きで、将来は料理人になろうと思っていた柴田さんが選んだテーマは「食の安全性」。当時、ダイオキシンや環境ホルモン、異物混入などが社会問題になっていたのだ。調べを進めているうちに、現代に蔓延する食品添加物の危険性を知った柴田さんは、「添加物がなかった時代はどうしてたんだろう?」という疑問を抱いた。そこで、チーズが登場する。
「添加物がなくても保存性の高い食品を掘り下げると、発酵というキーワードが出てきました。そのなかで、毎日30グラムずつ食べ続けても体に負荷のない発酵保存食品の第1位がチーズだったんです。栄養補助食品でもあって、例えば、マンチェゴっていうスペインの羊のチーズは、旅をする時に持ち歩いたって言われていて。日本って食料自給率が低いし、災害も多いでしょ。未来に受け継ぐなら添加物がなくて、保存性が高くて、栄養価が高いチーズだって思ったんですよね」
チーズは、柴田さんにとってなじみが深い食べ物だった。外資系の飛行機の整備士だった父親は、日本では珍しく夏休みが1カ月あった。そこで柴田家は家族でフランスに行き、アパートを借りて過ごした。フランスではチーズが日常にあるから、たくさんの美味しいチーズと出会った。
その思い出が強く心に残っていた柴田さんは、大好きなチーズがこんなに可能性のある食べ物だったなんて!と興奮。「よし、チーズを勉強しよう」と、北海道に乳製品加工実習場を持っていた東京農業大学に進学した。
月給3万円、休日2日
当時憧れていたのは、白衣を着た研究者。卒業したら北海道が誇る乳製品の大企業で働きたいと思っていた。ところが在学中にその企業が不祥事を起こし、いくつかの工場が閉鎖された。その時、テレビで解雇されたばかりの従業員が「明日から一家四人どうやって暮らしていけばいいのかわかりません……」と訴える姿を見て、大きく方向転換。人に頼らず、自力で生きていけるように手に職をつけようと、チーズ職人を志す。
こうと決めたら、全力前進。同級生が次々と大企業に就職を決めるなか、柴田さんは北海道にあるチーズ工房を調べ上げ、車で訪ねた。その場で味やデザインをチェックして、自分が気に入ったところには「勉強させてください!」と頭を下げた。
しかし、当時は個人経営レベルの工房がほとんどで、なんの経験もない若者を受け入れる余裕があるところはなかった。そのなかで1軒だけ、「給料なしでよければいいよ」と受け入れてくれたのが、農場内で飼育している牛のミルクのみを原料にしたこだわりのチーズを作っている某チーズ工房。柴田さんは迷いなくそこに飛び込んだ。
食事付きの寮住まいで、試用期間の3カ月間は給料なし、その後は月給3万円。朝5時に出勤して、仕事は21時頃になるのが当たり前。休日は月に3日だけ。とてつもなく厳しい条件に感じるが、修行の身であることを自覚している柴田さんは、3日しかない休日も工房に足を運んで、チーズの研究に励んだ。それほど、その世界は奥が深かった。
乳酸菌と酵母の可能性
チーズの原料は「乳」。日本では主に牛乳だ。まずここで、本場のヨーロッパと大きな違いが出る。例えば、フランスでは牛から搾ったばかりの生乳をチーズに加工できるのだが、日本では法律で殺菌処理が義務付けられている。その際、生乳に宿る多種多様な微生物が死滅し、牛乳の味で特徴を出すのが難しくなる。
もうひとつ、チーズ作りに欠かせないのが「乳酸菌と酵母」。牛乳を発酵させてチーズにするために乳酸菌と酵母を加えるのだが、チーズに使う乳酸菌が8種類、それと相性のいいとされる酵母が6種類あり、その組み合わせでいろいろなチーズができる。例えば、「ゴーダーチーズにはこれ!」という乳酸菌と酵母の定番コンビがあり、日本では専門の業者がパッケージで販売している。
ここで気づく人もいるだろう。平板な味の牛乳をベースに、パッケージ化された乳酸菌と酵母を使うと、できあがるのは同じ味のチーズ。スーパーなどで販売されている大量生産のチーズは、この方法で作られている。
これと違いを出し、個性を際立たせるために、柴田さんが働いていた工房では乳酸菌と酵母をパーツ買いし、独自に組み合わせていた。それによって、大量生産品にはない風味をもたせるような工夫をしていたのだ。もともと研究者志望だった柴田さんは、その生物化学的なアプローチに魅了された。
「私が働いていた工房では、ひとつのチーズに3つぐらいの乳酸菌と酵母を使っていました。それぞれ個性が違うし、菌も酵母も生きているから天候や季節によって働きも変わる。そのなかで自分が出したい味に最適な組み合わせを探るんです。さらに、お湯の温度や塩を練りこむタイミングでも違う味に仕上がる。それを考えるのが楽しくて!ここにいる間にぜんぶ学び切ろうと思って、毎日ノートをつけていました」
世界王者への憧れ
この工房での出会いも、柴田さんのやる気を掻き立てた。2004年、柴田さんの師匠にあたる先輩職人が、アジア人として初めて世界的なチーズのコンテストで最高賞のゴールドメダルを獲得したのだ。
英語が必要なコンテストのエントリー、輸送などをサポートしたのが柴田さん。しかもスタッフとして現地に派遣され、受賞の瞬間を目の当たりにすることができた。師匠の晴れ姿を見た柴田さんは、こう思った。
「私もあの舞台に立ちたい!」
そう考えた時、柴田さんは自分の生活を振り返った。早朝から夜遅くまで働いている自分は、その日の天気も知らず、自分が作ったチーズを食べるお客さんの笑顔を見ることもないまま1日を終える。それで世界一になっても、働き方がサステイナブルじゃない。お客さんの笑顔が見られる規模で、世界一のチーズを作ってみたい。
ここから、「世界一」への挑戦と「サステイナブルで心地よい働き方」を両立させるための試行錯誤が始まった。
2年半でチーズ工房を辞めた柴田さんは、北海道のホテルなどでアルバイトをしながらお金を貯めて、2008年、27歳の時に自分の腕をさらに磨こうとワーキングホリデービザでフランスへ。4軒の小さな酪農家でファームステイをして、牛の乳を搾り、チーズを作って、マーケットで手売りするという仕事をひと通り体験した。その合間を縫って、スペイン、イタリア、スイス、ドイツ、ベルギを訪ねて、現地ならではのチーズを食べ歩いた。
閃いて移住
1年の滞在を終えた頃には、チーズ職人として十分な修業を積んだと自信がついた。ところが、北海道に戻っても雇ってくれる工房はなかった。修業時代と同じような条件を提示するところはあったが、職人としてのプライドもあり、受け入れることはできなかった。
すると、母校の教授から「そんないい職人さんが放浪しているなんてもったいない」と学生にチーズに関する指導をしてほしいとオファーされ、とんとん拍子に講師の仕事を得る。任期は1年間だったが、この経験が今につながっていく。
「私、それまでは美味しいものを作ればいいだろうと思っている職人だったんです。でも、大学で教えたことで、教育とか次の世代に伝える面白さにはまったんです」
講師の仕事は時間に余裕があったため、1年後に起業しようと北海道で可能性を探った。そこで、「チーズ工房を始めるには、3000万円必要」という話が出てくる。チーズを作るには牛乳を仕入れなくてはならない。大型の設備投資もいる。土地も資金もないイチ職人が独立するにはハードルが高すぎる条件で、柴田さんは途方に暮れた。
そうして手をこまねいている時に、千葉に住んでいる父親が脳梗塞で倒れる。一命はとりとめたが、長い入院生活とリハビリが始まり、柴田さんも何度かお見舞いに帰省した。その時にふと閃いた。
「北海道にいると、流通コストは高くなるし、チーズ工房がたくさんあってパフォーマンスもどんぐりの背比べ。自分がこれから高品質、高価格のチーズを作るなら、東京というマーケットの近くにいた方が有利かも。実家にもすぐに帰られるし、千葉に行こう!」
意外なきっかけで見つけた物件
思い立ったが吉日、柴田さんは大学での任期を終えるとすぐに引っ越し。ホテルなどでアルバイトをしながら、日本の酪農発祥の地として知られる南房総なら温暖で年間を通して青草があるから牛も良く育つだろうと、南房総で土地探しを始めた。
しかし、3000万円という条件は変わらない。そこで柴田さんは「10分の1の金額で工房を作ろう」と決心。そこから知恵を絞った。南房総には牧場がたくさんある。牧場の近くに住めば牛乳の仕入れも楽になる。新たに建物を建てるのではなく、チーズ工房にしてもいいという前提で空き物件を借りれば初期投資を抑えられる。
そんな都合のいい物件がすぐに出てくるはずもなく、1年間で40の物件を見ても決まらない。そこで柴田さんは、自ら目星をつけた牧場の近くの集落を訪ねて「チーズ職人やりたいんですけど、近所にいい物件ありませんか?」と聞いて回った。それが、功を奏した。
柴田さんの話を聞いたある蕎麦屋の女将さんが、夷隅郡大多喜町にある牧場を紹介してくれたのだ。夫妻は牧場の隣にある古い実家の借り手を探していて、柴田さんが「チーズ職人をしていて、工房を開きたい。牧場から新鮮な牛乳も仕入れたい」と話すと意気投合。「私たちは頑張っている若い人の希望になりたいと思っていた。私たちの夢を叶えてくれることになるから、頑張りなさい」と快諾してくれたのだ。
築100年を超える古民家と、農機具などが置かれていた長屋、合わせて月数万円。隣には牧場があり、搾りたての牛乳が手に入る。これ以上ない物件だ。その時、既に微生物の研究所で働き始めていたから職場まで車で40分ほどかかるが、北海道でドライブが好きになり、マニュアル車にしか乗らない柴田さんには苦にならなかった。
自分でカテゴリーを作る
2014年に転居した柴田さんは、長屋をリフォーム。焦らず、自力でできるところは時間をかけてDIYすることで改装費を200万円ほどに抑えた。工房に必要な器具も、通常のチーズ工房では400リットルから大きいところは1.2トンほどの牛乳を仕込める設備を使っているところ、40リットルからスタートした。こうして2014年12月、リフォームと設備投資を含めて約300万円のチーズ工房がオープンしたのだ。
40リットルの牛乳からできるチーズは、だいたい4キロ。この規模で生きていくために、柴田さんは独自の道を歩む覚悟を決めた。
「ゴーダも、カマンベールも、ブルーチーズも、ヨーロッパに本家本元がいるじゃないですか。それっぽく作らないと高い評価が得られないということは、いつまでも本場の後追いですよね。その市場からは降りて、自分がカテゴリーを作っちゃおうと思ったんです」
目をつけたのは、「乳酸菌と酵母」。最初に修業をしたチーズ工房では3種類の乳酸菌と酵母を使っていたが、柴田さんはオリジナルの香りと風味を追求するために、その数を増やしていった。乳酸菌と酵母には相性があり、誰も知らない組み合わせを追求したのだ。
ミクロの世界を切り拓くような試行錯誤のなか、できあがったのが7種類の乳酸菌と酵母を0.1グラム単位で調合し、表面に竹炭をまぶした「竹炭」。2017年に日本一になったのは、これを濃厚熟成させたものだ。
スピーチの練習
それも、柴田さんにとっては通過点。チーズ専業になった今からが「女性ひとりでも、地方でも、身の丈に合った規模で勝負できること」を証明するための本当の挑戦になる。
取材の日、「竹炭」をベースにした、まだ名前のない開発中の商品を食べさせてもらった。そのチーズは淡雪のようで、口に含むとあっという間に崩れて、酒かすを思わせる豊かな和の香りがフワッと鼻に抜けた。それは、間違いなく未知のチーズ体験だった。
柴田さんが今、目指しているのはこのオリジナルチーズで世界王者になることだ。
「農林水産省が世界コンクールの調査団を組んでくれて、昨年、大会が開かれたノルウェーに行かせてもらったんですよ。その時にコンクールの市場とか、ジャッジの様子を見ていい収穫になりました。日本人で世界一になった女性職人はいないんですけど、その時に、これはいけるかもしれない、不可能な夢じゃないって思ったんですよ。それから私、世界一になった時のために、スピーチの練習をしてるんです。フランス語で(笑)」
独自の世界観を表現したチーズで世界一になることができれば、市場が世界に広がる。小規模でも、丁寧に仕事をしている職人に夢を与えることになる。自分の姿を見て、チーズに興味を持ち、後に続く人が増えてほしい。チーズの開拓者は、そう願っている。
ライタープロフィール
川内イオ
1979年生まれ。大学卒業後の2002年、新卒で広告代理店に就職するも9ヶ月で退職し、03年よりフリーライターとして活動開始。06年にバルセロナに移住し、主にスペインサッカーを取材。10年に帰国後、デジタルサッカー誌、ビジネス誌の編集部を経て現在フリーランスエディター&ライター&イベントコーディネーター。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンターとして活動している。稀人を取材することで仕事や生き方の多様性を世に伝えることをテーマとする。
過去記事
・ダメ学生から世界王者に。賞金1億円を手にしたプロゲーマー・ふぇぐの逆転人生
・丹波の山奥にある「5年待ち」のパン屋。職人・塚本久美は旅をして、パンを焼く。