今回は「ベーススタイルが確立している人の幸福度は高いのか?」がテーマ。現代における幸福のあり方を模索するなかで、前編では江戸時代の「号」と「連」の考え方や、ベーススタイルをよりよくを形作るための「2単語の組み合わせ」などに話は展開しました。
続く後編も、その展開は様々。「見積もり」や「中期経営計画」といったビジネスフレーズも飛び出しながら、思考の旅が続きます。
見積もりの精度を上げるより、スタートした方が早い?
クラシコム 青木耕平(以下、青木)
石川さんがベーススタイルみたいなものを意識されたのって、いつ頃からなんですか?
石川善樹:(以下、石川)
やぁ、でも、ここ数年です。僕はコンプレックスがあって、それは「自分でものを考えていない」ことだったんです。なぜなら、他の人には見えなくても、話のネタ元を自分は知っていて、それを問題に合わせて答えているに過ぎなかった。それで、ヨチヨチ歩きでも良いから自分で考えてみようと決めて、ここ数年でトレーニングしてきたんです。
青木
それはどういったトレーニング?
石川
まず、情報を遮断します。それで、準備をせずに行って、その場で一緒に考える。そこで答えを出して帰ってくる、という。
青木
ははははっ!大喜利芸人的な。
石川
旅先で句を読む松尾芭蕉のようですよ(笑)。
青木
僕が面白いと思ったのは、それは昭和的、あるいは20世紀的な価値観では「拙い方法」として整理されているじゃないですか。準備や計画をせず、瞬発力や思いつきの連続で何かを残すことは。だけれど、僕は今って、そこが変わってきているような気がしていて。
昔はすごい勉強して、すごい準備して、整合性が完全にとれたものをプレゼンテーションするみたいなことに「高級さ」を覚えていたけれど、現代はむしろ瞬発性のようなものこそが最上ではないか?と。それが出来るようになるために、今まで修行してきたわけで!
そこをいつまでも否定されてしまうと、ある時に人間の限界が来て、先へ進めなくなるかもしれないと感じていたんです。もっといえば、「人間に全体を見渡す能力なんて本当にあったのか説」も考えていて。最近だと「見積もり」で思いますね。
エンジニアに何かを作ってもらおうと見積もりを出してもらうけれど、その通りにはなかなかいきません。見積もりの精度を上げる時間を使って、むしろ手を動かして作り始めた方が、結果的に早く出来るようなことってあるじゃないですか。
石川
人間って、今日できることは過大評価するけれど、1年間かけてできることは過小評価するんです。バイアスだらけですからねぇ。
青木
だからこそ、もっと瞬間的に生きることを下支えするための型があればな、と思います。
石川
幸せとの関連で言うと、アメリカの学術雑誌の『Science』に、あるスマホアプリの研究結果が載っていました。「どういった活動をしていると人は幸せなのか」を調べるために、世界80カ国くらいの人にアプリを配り、「今は何していますか?幸せですか?」と聞いたそうです。
結論、活動の種類はあまり関係なかったんです。「その活動に集中できているときが幸せ」なんですよ。
青木
わかるなぁ。
石川
これも一つの型だと思うんですよね。思考をあまり過去や未来へ飛ばさずに、今この瞬間に没頭できている状態ともいえます。ある種のクセに近いものだと思いますが。
例えば、100歳まで生きた人に「長生きの秘訣は何ですか?」と聞いても、別に本人は長生きしようと思って生きてきたわけではないから困ってしまうそうです。一日ずつ丁寧に生きていたら100歳まで生きました、という人がほとんどなんだとか。
これからは「今ここ教」が来る(はず!)
青木
企業運営の選択肢として、逆算型は認められているじゃないですか。中期経営計画を提出し、3ヶ年計画で実績を積み上げましょう……というのは、上場企業における一つのレギュレーションでもある。
でも、「見積もりを作るよりも日々に集中した方が儲かるんじゃない?」みたいな感覚に理論的な説明がついて認められるようになったら、もうちょっと幸せになれそうだって思うんです。
石川
SONYの盛田昭夫さんが「会社が大きくなると、先のことが考えられるようになる」と言っています。でもね、人間は先のことなんて考えられないですよ!(笑)
青木
本当に!それはね!明確!
石川
脳がそうなんですから、しょうがないんですよ!
青木
いやぁ、僕はね、石川さんを含めて、頭の良い人たちが「無理だ!」と先に認めていったら社会が幸せになると思いますよ。僕らみたいなのは、子どもの頃から「これが出来ている誰かが世の中にいるのだから頑張らなきゃ」と思わされてきたけれど……大人になってようやく、案外うまくいっている人でも、みんながちゃんとしているばかりではないという事実に気づいてきました。その事実が教えてくれる幸せというのか、安心感ってありますもん(笑)。
石川
それへの反旗を翻すには、中期経営計画を立てたりするのを、一つの宗教として捉えることですね。あなたは「中期経営計画教」に入信なさっているのですね、と。
青木
それは結構なことですなぁ、と(笑)。
石川
日本人は宗教に対して抵抗感がありますからね!最近だと「考える教」もあるんだと思うんです。考えることがまるで素晴らしいことだと思っている人たちです。
青木
「よく考えろ!」と言う人には「あなたは考える教なんですね」って……なるほど!ブルース・リーは「考えるな、感じろ!」ですし。
石川
僕は「感じる教」ですから!
青木
僕も「感じる教」ですね、どちらかというと。
石川
未来というものを崇拝なさっている「未来教」もいますが、僕は「今ここ教」ですよ!
青木
それは僕も!
青木・石川
ははははっ!
青木
いやぁ、「今ここ教」もマイノリティだろうけど、その潮流や塩梅は変わってきている気がしますよね。だんだん「今ここ教」が盛り返している感がある。
石川
それは確実になると思いますよ。
変化し続けている限りは、進化である
青木
すこし本題から離れるかもしれませんが、石川さんは「人類は前に進んでいる」と思いますか?
僕は結構、進んでいるはずだと思っています。世界はどんどん良くなり、人類は確実に進化している。研究者の立場から客観的に見ると、違う捉え方もあるのでしょうか。
石川
前進という観点でいくと、人類は「進歩」と「進化」の両面があると思います。進歩は明らかに良くなっていること。例えば、子どもの生存率が向上したことですね。ただ、進化という点では、良いかどうかがわからない状況が多いわけですよ。
たとえば、平均寿命は戦後50歳から80歳に進歩しました。しかし、果たしてそれによって、人類の生き方が「進化」したのかといわれると、よくわからんですよね。
青木
あー……進化とは言えないかもですね。
けれど、認知できる事柄の抽象度合は、すごく拡張している気がしていて。古代ギリシャ哲学で認知していることを、今の僕らが読むと「これは自然科学だよね」と感じるくらいに抽象度が低かったりするものもありますし。
石川
人類の知能指数を見ると、この100年でグっと伸びています。そこで点数が伸びている項目は抽象思考なんですね。本当に抽象的な話って、昔は出来なかったわけです。具体的にしないとわからんなぁ、みたいな。
で、果たして今が良い状況なのかはわからない。そういう状況では、もがきながら変化し続けるしかないんです。「変化し続ける」というのは、僕は結構、重要な進化の要因だと思っています。それが良い方向なのか悪い方向なのかは、わかりませんが。
青木
進化って、善悪は関係ないですもんね。
石川
だから、大切なのは止まらないということ。少なくとも変化し続けている限りにおいては、それは進化で良いんじゃないかな、と僕は思います。「変化してみてどうだったか」によって学ぶんですね。
自らを動詞で規定すると、ベーススタイルは作られていく
青木
面白いなぁ。僕は最初、ベーススタイルを考える上で、もっと「様式美」のようなことを思い描いていたんです。でも、ベーススタイルがあるから変化できるし、変化するからベーススタイルも進んでいくという、変化とのセットで考えるべきなんだと改めました。
今回の最上段に挙げた、「ベーススタイルが確立している人の幸福度は高いのか?」については……まだそこまでは、はっきりとは言えないですかね。
石川
大事なのは「フィットする」ってことなんだと、話していて思いました。
青木
僕らクラシコムのミッション(「フィットする暮らし、つくろう。」)に入っている言葉ですね
石川
なにより「フィットする」って動詞なのが良いんです。動詞だと「動いて変化していく感じ」がありますよね。「北欧」や「幸せ」といった名詞や形容詞だと、その感じがしない。
“I teach English.”と、”I am an English teacher.”は、同じようで全然違います。「自分は何者なのか」を動詞で規定するのが重要ですね。世の多くの人は、それが会社名や役職といった名詞なんじゃないでしょうか。「部長する」って言わないですからね。
青木
たしかに言いません。自己紹介の時にも名詞で語られると、僕はテンションが下がってしまいますね。動詞っぽいことを言う人だと「え?なになに?」と興味を持っちゃいます。
石川
たとえば、僕たちの共通の友人の尾原和啓さんは「僕は繋げます」って言いますしね。
青木
そうかぁ……ベーススタイルって動作なのかも。ベーススタイルがあると、逆に思考が自由になって、変化し続けられる。さっきおっしゃていた、「自分は考えていないんじゃないか問題」においても、考える際に体は動いていないけれど、考える「型」の部分は動作であって、その動作を手に入れたから一段上のプレイヤーの思考になれているんだ。
石川
そうそう。僕は考えることが仕事なのに、いつの間にか「調べる人」や「勉強する人」になっていたんですよ。
青木
今日、石川さんと話し始めるまで、不確実性の高い世の中だから、自分の判断基準に制約事項を設けたほうが安心感があるのかと思ってたんです。たしかにそれもあるけれど、ベーススタイルの効用は、「変化のしやすさ」や「自由度の向上」にあるんだと考え直しました。
「幸せが何か」は……まだわからないけれど、ベーススタイルがあれば常にフィットしていられる。それに、変化できるということは、フィットするものも変わるじゃないですか。年齢を重ねて体型が変わってきたときに、好きな趣向は変わっていないけれど、微妙にフィットする洋服が変わるように。
ベーススタイルがない人はその自由な移動が出来ないから、いつの間にか窮屈になっていたり、サイズが合わなくなってしまったりするところに閉じ込められちゃう危険がある。
石川
そうですね。僕が思う「フィットする」って、周りに合わせるというイメージではないんです。自分という点と相手という点を、合わせるのではなく「繋ぐ」。合わせにいくフィットはつらいんです。自分の型を変えなきゃいけないから。
青木
洋服はそれこそ、この服が好きだという自分という点と、他者から見てどうなのかという点と両方が繋がってこそ「フィット」している気がしますし。
石川
たしかに、フィットするってそういうことなんでしょうね。
前編「ベーススタイルを持つ人ほど幸福度が高いのではないか説」
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