誰も彼もがその言葉を口にします。日本で生きる人々は、その追求が権利として認められてもいます。それほどに当たり前、だけれども難しいのが、幸福の捉え方です。
人生における幸せがあります。あるいは、ビジネスにおける幸せもあるでしょう。その定義は人それぞれですが、それを考えることは、きっと自らの人生や仕事におけるコンセプト作りともつながるはずです。
「ベーススタイルが確立している人の幸福度は高いのか?」
彼らはある日、そんなふうに話したといいます。予防医学の研究者である石川善樹さんとクラシコム代表の青木は、「ベーススタイル(=個としての型)」をしっかり持つ人ほど、幸福な状態にあるのではないか、と。
身近すぎる願いなのに、いつも遠いように思える、この不可思議な「幸せ」をめぐるディスカッションの続きが始まりました。
そもそも幸せとは掴み取るものではなかった
石川善樹:(以下、石川)
最近、もうすぐ100周年を迎えるような会社に呼んでもらって、「これまでの100年と、次の100年に向けて」についてディスカッションする機会が増えました。各企業の方と一緒に考えていく中で、そういう歴史ある会社は「文化」をキーワードに創業していることが多いと気が付きました。たとえば、「文化の振興に資する」というミッションを掲げていたり。
クラシコム 青木耕平(以下、青木)
なるほど。100年前だと第一次世界大戦後……大正時代ですか。
石川
当時、家庭用洗濯機を売り出した頃、東京芝浦電気(※現在の東芝)は「洗濯機を買って主婦の読書時間を増やそう」という広告を出しているんです。広告なのにすごい問いかけですよね。
青木
「文化的にありたい」というのが根源的にあるんでしょう。
石川
もうひとつ出てくるキーワードが「天職」です。「与えられた仕事を天職だと思って頑張りなさい」といった松下幸之助さんの言葉も代表的ですね。それで、昔は「天職」だったけれど、現代は「転職」になったんですよ。転がっていくことで、常に周りを見て、そこへ自分をフィットさせにいく時代に変わっていった。
青木
探しながら当てはめていく、みたいなイメージですよね。
石川
僕なりに「転職」の次を考えてみたんですが……「点職」かなと。これは常に世の中で「自分はここにいる」という点を打ち、周りの点と線を結んでいくイメージ。打つ点は大きくなくても良いのですが、この点の打ち方こそベーススタイルみたいなものではないかと。
青木
「与えられる」という意味では、「天職」の時代を言い換えると「与件の時代」であったともいえそうです。一方の「転職」は自己責任も含む「自由意志の時代」といえる。「点職」は「与件を自ら作る」といったように感じます。自らにある種の制約事項を設け、その中でのバリエーションを出すような。
たとえば、お弁当箱に定番がない時代は、使いにくい変わった形のものを作ってしまったりと、中身よりもお弁当箱そのものから検討していた。それが時代と共に四角や楕円で落ち着いたからこそ、中身の勝負ができていく。つまり、自分でざっくりと与件を立てられるようになったといいますか。
石川
あぁ、そうかもしれないですね。
加えて、与えられるという点に関しては、今日の議題でもある「幸せ」についてもつながります。世界を見渡すと、幸せの捉え方には大きく2つの考え方があります。一つは西洋に代表される「幸せはつかみ取るものである」という考え方。もう一つは、日本に代表されるように、「幸せとは運である」という考え方です。
青木
なるほど!
でも、幸せって、概念じゃないですか。同じ状況にある人でも、それを幸せと思う人と、そうでない人がいることを考えてみると、いかに状況を解釈するかなんだと思います。
江戸時代の「号」と「連」に学べ!
青木
幸せが自己の解釈で定まるとすると、「与件の時代」においては社会と自己が溶け合っていますよね。主観も客観もなく、まだ自意識が弱い状況なんでしょう。
石川
個人という概念がありませんからね。
青木
つまり、「転職」とは「客観の獲得」だと思うんですよ。それで、おそらく「点職」の時代は、客観へ振り切った後で、出発点を改めて主観へ戻し、自分でスタートを決めていく。
「僕はパン屋になる」と決めて進むことで、その延長線上に思ってもみなかったような出口が出てきたりする。「北欧、暮らしの道具店」もヴィンテージの北欧雑貨を一個ずつ仕入れて売るところから始めて、その都度なんとなくやっているうちに、謎の活動体になっていったわけです。だけれど、「若くして成功者になろう」みたいな課題設定だと、ベタな選択肢から入っていって、どこか同じようなものが出来ていってしまう。
僕は、その人のベーススタイルって、オルタナティブなスタンスであった方がいいと思うんです。僕自身、自己イメージが明確に固まることがすごく怖いんですよ。それは人からの支配に繋がるから。「頭が良い人」とみんなに思われると、馬鹿なところがあっても言えなくなったりする。だからこそ、ちょっとずつ自分のイメージを要所要所で壊そうとします。
石川さんも似たところがある気がしていて。文脈としての一貫性はあるのだけど、会うたびに話すことや関心事が変わっていて、固着化を避けているように見えます。
石川
うんうん。いま青木さんのお話を伺って、突然かもしれませんが思い出したことがあります。
青木
何ですか?!
石川
江戸時代にあった「号」と「連」という考え方ですね。田中優子さんが『江戸はネットワーク』(平凡社)というすばらしい本を書かれています。その中で、江戸時代のクリエイターたちの生き方について触れているのですが、彼らは生涯に「号」をたくさん持ったそうです。言わばペンネームなんですけど。
青木
あー!屋号の「号」ですね。
石川
そうです!すると浮かび上がる疑問は、何で生涯に何個も「号」を持ったのかということです。
青木
何でですか?
石川
謎を読み解くキーワードが、「連」です。連は今でいうコミュニティみたいなもんで、江戸時代のクリエーターたちは、いくつもの連に入っていたみたいなんです。そしておもしろいことに、所属する連ごとに号が違っていたのだとか。つまり、自分というものをすごい自由に捉えて、コミュニティごとに色んな自分を発揮して楽しんでいた。その背景には、「首尾一貫した自己などないでしょ」という考え方が透けて見えます。
連には様々な人がいて、そこへ自分は「この号で入ろう」と点を打つ。そして、その連がクリエイティブなものを生み出せなければ解散する。今ほど個のクリエイティビティに焦点が当たっていなかったんですよね。
俳諧も他人とつないでいく連句から、五・七・五という発句だけを取り出し、正岡子規が「俳句だ―!」と個のクリエイティビティを大事にするように働きかけたところから流れが変わりましたから。
青木
自意識が出始めたんだ!
石川
そうなんです! ここで面白いのは、号をいくつ持ってもいいということは、その人のベーススタイルもいくつあってもいいということなんですよ。例えば、「酒を飲むときの号」まであったそうです。
青木
たしかに、「ある酒場でだけ、あだ名で呼ばれている有名なおじさん」みたいな人っていますよね(笑)。
石川
そうそう。柔軟にいろんな点を打てることが、「号」と「連」という考え方で。僕はそういう意味でも、「連」ごとにいろんな点を打ってみているんですよね。
僕の専門領域も、人によって見方が違うんですよ。僕を数学者や脳科学者だと思っている人もいます。でも、僕からすればなんでもいいんですよ。脳科学が専門と思われているなら、まあ脳科学者でいってみようかな、って(笑)。
青木
「号」を言い換えると「他者とのインターフェースを明らかにする」ともいえそうですね。石川さんなら「健康」や「Well-Being」というインターフェースを持っている。それを明らかにしていない人とは、どの関係性で接続してよいかがわかりにくいですから。
偉大なコンセプトが生まれる「2単語の組み合わせ」
石川
僕は考えることが仕事ですが、自分なりに考え方の型があるんです。というより「型化」しないといけません。インプットとアウトプットのプロセスを型化しておかないと、いろんなインプットに対応できないからです。
青木
それこそ毎回、お弁当箱から作っていたら、たいへんですもんね。
石川
「巨匠は制約の中でしか生まれない」みたいな話もありますけれど、もしかするとベーススタイルって、要は「制約」なのかもしれないです。
青木
おぉー、なるほど。
石川
スタイルには「縛られる」というイメージがあると思うんですけど、縛ることはその中で自由にもなるということなんです。それに、スタイルが出来た瞬間に、多くの人に共有できるようにもなりますよね。それこそ「北欧スタイル」みたいに。
青木
新しい物事も、既存にあるものをメタファーとして説明をつけると、他者へ広がりやすくなるようなところがありますよね。例えば「eコマース」を「ネット上のお店」と説明したことで多くの人と共通理解ができるようになったけれど、もしも別のメタファーで説明していたら、全く違う進化をしていたような気がするんです。
あるいは、「ウェブサイト」と名付けたのも、その後に大きく貢献しているはずです。場や空間を思い浮かべる「サイト」を当てたから、依頼者もそれだけの予算感で捉えて発注するようになったんじゃないでしょうか。仮に「ウェブパンフレット」だったら、おそらく会社案内を作るときぐらいの予算感しか最初から出なかったかもしれない。どんなメタファーで説明したかによって、産業の規模が全然変わっただろうなって。
石川
たしかに、たしかに。ホームページのあり方も変わっていたりして。
ちなみに、偉大なコンセプトの多くは、優れた2単語の組み合わせから生まれることが多いように思います。その2単語は「馴染みのある単語」と「馴染みのない単語」の組み合わせです。ウェブサイトはこれですね。
あるいは「両方知っているけれど矛盾する」組み合わせ。Mr.Childrenや、落合陽一くんの「デジタルネイチャー」とか。論文のタイトル付けでも、良い論文こそ2単語で的確に表現している。それは一つのテクニックとして言われているんです。
青木
へぇ、なるほどなぁ。面白い!その「2単語の組み合わせ」がわかると、ベーススタイルの大事さも見えてきませんか?まずは馴染みのある何かしらの型をひとつ取り入れ、そこを起点に新しいものを作り上げていくという。
石川
僕が研究する「予防医学」も矛盾してますからね。医学って治すことが主なのに、予防だから「治させませんよ!」みたいな(笑)。
青木
たしかに!(笑)
さっき出た「連」によって、それぞれ別の「号」を持つという話も、ある意味他者から見たら矛盾する概念の並列になるということもありますよね。ただ、自分の中では結びついている。
石川
近いものを結びつけている人もいれば、遠い場合もありますし。「ヘーゲルの弁証法」でいう正反合じゃないですけど、主流とカウンターを組み合わせてしまうような、本来なら相容れないスタイルの作り方もありますよね。
青木
そこで相反するものを結びつけられることで、可能性や自由が増えるのはスタイルの効能の一つといえそうですね。
石川さんが「数学者や脳科学者と見られても自分は平気だ」とおっしゃるのは、自意識を重視していないのもあるんでしょうけれど、たとえ「号」の並列が破綻しても、あるスタイルに統合できる自信があるのも大きいのでは?
石川
あぁ、そうですね。説明なんていかようにもできる、という自信があるんだと思います。おそらく、ベーススタイルがある人は、100人に合わせた100通りの自己紹介ができるんですよ。
青木
それでも、その人らしさを感じられるわけですね。
石川
そうそう。相手との関係性にもよりますけどね。ベーススタイルのない人は……ひとつだけ用意した自己紹介を、100人に押しつけちゃうのかも。
後編はさらにビジネスの分野に議論が深まります。
中期経営計画や未来志向は「宗教」と考えればラクになる
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