2019.10.10

人の生き方は4つに大別できる。自らを振り返る“Doing”と“Being”のあいだ──東畑開人×石川善樹×青木耕平 鼎談

書き手 長谷川 賢人
写真 千葉 顕弥
人の生き方は4つに大別できる。自らを振り返る“Doing”と“Being”のあいだ──東畑開人×石川善樹×青木耕平 鼎談
「僕はこの本を読んで以来、書かれていることについて、一人で100周ぐらい考えました。だから、僕のエゴで申し訳ないですけれど、まずは答え合わせがしたいんです」

クラシコム代表の青木は、表紙がすりきれ、ページのすきまがふくらんでしまった本を触りながら言いました。『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』は、臨床心理学を専門とする東畑開人さんが、沖縄の精神科デイケア施設で過ごした日々を題材に、「ケアとセラピー」について考えを巡らせた物語です。



任に就いた主人公は、当初は「する」ことを探しました。しかし、臨床心理士としての仕事よりも山積していたのは、施設に通う人々が、ただその場所に「居る」ためにしなくてはならない日常のサポートの数々。忙しさと人間関係に翻弄される中、本来の仕事と考え施したセラピーでは、望んでいなかった結果も引き起こしてしまいます。やがて、彼は施設のあり方を通じて、「ただ居るだけ」の価値に気づいていくのです。

ある時、代表青木は会食の場で『居るのはつらいよ』への考えを熱弁。相手は、Well-beingの研究者であり、作者の東畑さんとも親交のあった予防医学博士の石川善樹さんでした。「だったら3人で『居る』をテーマに話してみよう」。そんな気持ちで集まったのです。

次にお見せするのは、鼎談をしながら書き足されていったホワイトボードです。最後には、こんなふうになっていました。



「Doing/Being」「ひとり/みんな」……この両軸を基盤に、あらゆる観点からキーワードが結びつけられていきました。

経営、臨床心理、Well-beingといった専門性、それぞれを支えてきたバックボーンに、愛する知識たち。3人はそれらを駆使し、行き先も定めず、それでも歩みを止めることなく、人間に潜む「何か」を見出そうとする言葉の旅を始めました。

そして、この記事に終わりはありません。気長な旅路の一片を、共に楽しみましょう。

上手に「居る」ことができているのは、どんな人?

クラシコム 青木耕平(以下、青木)
『居るのはつらいよ』に僕がのめり込んだのは、経営者は「居る」という仕事を行う最たる存在だと思ったからです。

司馬遼太郎の『坂の上の雲』に、こんなシーンがあります。ある戦で、総大将の大山巌が「自分は昼寝をしているから、好きなようにやってくれ」と参謀の児玉源太郎へ伝えます。「もし負けるとわかったら呼べ。そしたら自分が先頭に立って、一緒に玉砕しよう」と。

東畑開人(以下、東畑)
すごい話ですね!

青木
これは、まさに大山巌が「居る」という機能を果たした形だと思います。でも、僕も含めて、経営者でも「居る」という機能を果たせない人が意外に多いんです。「居る」だけでなく、自分でも手を動かしてしまったり。それで……

石川善樹(以下、石川)
あ、すみません。ホワイトボードを使って、ちょっと忘れないように書いておきましょう。東畑さんや青木さんが言う「居る」は、英語で表すなら“Being”でいいですか?

東畑
Beingですね、はい。

石川
それに対しての「する」なら、“Doing”ですね。まず、この対立に苦しめられる。そして、ここにはもう一つの軸が引けると僕は思います。「ひとり」と「みんな」です。おそらく、このバランスの取り方が、良い人生を目指すためにも大切なのでしょう。

青木
なるほど。経営者は「ひとりで、居る」がつらいわけですね。でも、社長や代表といった立場上、居られなくなると逃げ先が欲しいから、社長室のような部屋を設けたりする。

東畑
あぁ、たしかに。

青木
それに加えて考えたのが、「上手に『居る』ことができた例はあるのだろうか?」です。つまり、「居る」の模範を探してみたんです。僕が思った好例は、王様、貴族、僧侶でした。

エイモア・トールズの『モスクワの伯爵』という抜群に面白い小説で、主人公がロシア革命時に伯爵であったことを罪に問われるシーンがあります。職業と名前を聞かれた彼は「紳士は職業を持ちません」と返すんです。

東畑
いいですねぇ。すばらしい。

青木
これも「居る」だけの宣言に聞こえます。それが成り立つ理由は、中世まで遡ると貴族の主な役割が戦争だからです。国民国家が成立するまで、戦争は基本的に貴族か傭兵がします。町民からすれば、「あいつらは普段は『居る』だけでも、いざとなったら死んでしまう」という存在になる。あるいは僧侶は、出家という形を通じて、ある種の“社会的に死ぬ”状態を、みんながコンセンサスとして受け入れている。

要するに、戦争からの距離が近い、未成熟な社会で自衛の必要がある中においては、構造的に「居る」が許されやすい。そこへ絡み合うのは死やバイオレンス、有限性です。僕も考えきれていないですけど、この仮説から「経営者を取り巻く『居る』問題」を解決する手立てが見えたら嬉しいんです。

実は「遊ぶ」って難しい。うまくやるために欠かせない「依存」

東畑
経営的に見れば、資本家と労働者の間にいるマネジャーは“Doing”の塊です。一方で、王様、貴族、僧侶は資本階級の人たちですよね。その意味で経営者も“Being”を仕事にしていると。

ここには「うまく依存できているか」という問題もあるはずです。貴族や僧侶は「依存して当然」と思っている節もある。とんでもないやつらですよね(笑)。でも、そういう時代だったのですね。

青木
依存している側は当然に思い、依存されているほうも許せている状態ですね。

関連して思い出すのは、『居るのはつらいよ』で「依存しなければ遊べないが、遊ばないと依存できない」という関係性が書かれていますよね。ただ、僕自身は遊ぶのが下手で……善樹さんって、自分は遊ぶのが上手だと思いますか?

石川
いや、意識しないと遊べていないタイプです。

たとえば、「みんなで、居る」って飲み会や旅行のイメージですが、そういう場を意識して作っています。というのも、今まで常に“Doing”側でしか活動してこなかったから。

この図式で「遊ぶ」の置きどころを考えると、「ひとりで、する」か「みんなで、居る」に当てはまるんでしょう。

青木
たしかに。ここが「遊ぶ」の領域ですね。

東畑
「遊ぶ」でいうと、リゾートホテルのような場所も貴族の世界に近いですね。お金を払うことでいろんなものを免除してもらい、依存させてもらうところですから。

青木
「免除」というキーワードは大事そうです! それこそ新幹線に乗っている時間も近しい。

石川
あぁ、新幹線は「ひとりで、居る」に入りますしね。

青木
「新幹線に乗っている間は、どうせ何もできない」というコンセンサスがあるから、すごく楽なんですよね。今はWi-Fiの整備とかで崩れつつはありますが。

東畑
そういえば、僕らがタクシーや新幹線で寝てしまうのは、サルがわが子を抱っこして移動する際に、子どもが騒ぎ立てると危険だから、寝るようにセッティングされている影響だと聞いたことがあります。学術的には怪しい話なんですけどね(笑)。

話の真偽はさておき、サルはお母さんに全て委ねているわけです。僕らの移動も同じで、自分で運転していると寝れないけれど、運転手が代わってくれれば眠れる。やはり「依存」が存在している。つまり、「遊ぶ」の裏には「依存を引き受けている人がいる」ということでもある。

青木
新幹線だって数百キロメートルで走る鉄の塊に、全幅の信頼を持って乗っているわけで。よく考えると、ちょっと変なことですよね。

東畑
そうそう。で、「遊ぶ」がうまくいっていないということは、普段から依存がうまくできていないということになります。だからこそ、常に何かを「する」ようにしていないと、その場にいられないと感じてしまう。

脳内にある切り替えスイッチと、“Doingな人”の発想

石川
この図から、脳内の切り替えスイッチの話を思い出しました。

「ひとりで、居る」ときの脳は“Default Mode Network(デフォルト・モード・ネットワーク)”と呼ばれ、直観的になるモードのはずです。一方で、「みんなで、する」ときの脳は“Executive Network(エグゼクティブ・ネットワーク)”といわれ、論理的になる。

東畑
なるほど。

石川
ここが面白いんですけど、僕は「ひとりで、する」と「みんなで、居る」のときは、思考が四方八方に飛ぶんですよ。たとえば、みんなが同じ目的に向かっているときは、他の可能性を探しておくという意味でも思考は散っていたほうがいい。

そのときの脳は“Salience Network(セイリエンス・ネットワーク)”と呼ばれ、大局観になりやすい状態にあるんです。飲み会で目先の話をしながらも、急に「人生ってさ」みたいに語ったりするじゃないですか(笑)。

青木
「俺たちの会社、今のままでいいのかな?」とか言いがち(笑)。

石川
そんなふうに、“Doing”と“Being”のバランスを切り替えることで、自然と脳のネットワークも切り替わる可能性があって。

青木
面白いですね!

あと、この図を経営的な観点で見てみると、「執行」と「経営」に分けられそうです。執行は直観だけではできないけれど、経営の重要な役割が意思決定である以上、直観に頼るところもある。ひとりの直観に頼ることはあれど、仕組みとしては取締役会のように集団で大局観をもって決めることもある。

経営者個人としては直観を持ち、経営者が集まった集団では大局観を元に意見を決め、執行させていく。もっと言うと、その決め事の際に、何かしらのインプットが別にあるような気がするんですよ。

東畑
たとえば、本を読むとか。

青木
そうですね。いきなり考えるのではなく、何かしら縁があることを適当にやったり、本を手当り次第に読んだりしていくうちにインプットが貯まっていく。

石川
でも、それって、やっぱり“Doingな人”の発想なんですよ。

東畑
うん。ここまで全部そうですね(笑)。

青木
最終的には「する」につなげよう、みたいな。

石川
僕も含めて、結局そこへ行きたがってしまう(笑)。

これは補助線的な話ですが、『古事記』には面白い特徴があって、「絶対的な創造主」が不在なんです。世界の神話は創造主が何かを「する」ことで始まるけれど、『古事記』だけは最初から神様が「居る」んです。そして、「居る」のが「成る」んですよ。

青木
居るのが成る?

石川
「居る」って、日本語だと「不完全な状態」という意味を本来的には表します。だから『古事記』は、まず何かが「成る」ことで神になるんです。

それは「成人」という言葉も同様です。「人に成る」わけですから、それまでは人じゃなくて、人として「居る」だけなんですよ。子どもなのに「居人(きょじん)」というわけですね(笑)

「Doingという病」を脱するための、世界の捉え方

東畑
「居る」は生産性の問題に対してクリティカルなものです。こうやって話し合っていくと、どうしても生産性にたどり着いてしまう人たちが、「居る」のがすごく苦手であるというのは面白いですよね。

石川
まさに「Doingという病」ですね。

青木
病ですよね……。

東畑
でも、それって、なぜなのでしょう。青木さんは、いつ頃からの兆候だと感じます?

青木
正直、わかりません。ただ、僕個人で言うと、中学校の卒業文集に「将来の夢は貴族」と書いていて。今思えば、それは金持ちになりたいというより、「居る」だけを肯定されたいという裏返しかもしれない。

東畑
なんという矛盾だ!

青木
だから、僕は経営者でありながら、相対的には「居る」に寄ったタイプだとは思うんです。もともと専門性を持っているわけではないですし、僕の仕事は「する」人の後押しがメインですから。

東畑
そこに引き裂かれているわけですね。貴族志望者が“Doing”してしまう経営者になっているとすると、そこに「何か」が混入しているんですかね。

青木
僕が興味を持つ分野って、環境や建て付けといった、広い意味での「事業の在り方」みたいなものへの着想なんです。それは経営者という立場でないと実現できません。あとは、考えつくことが基本的にはエビデンスのない思いつきが多いから、それを人にさせて責任をとってもらうのも結構難しい。

だったら、僕が責任を取る立場でいたほうがいいな、と。あとは、これまで資金が豊富ということでもなく、「する」と「居る」を交ぜながらでないと、やってこられなかったのも大きいと思います。

石川
ふと思い出したんですけど、悟りを開いた人を対象にした研究を見ると、意識の中心に「世界」があるんです。そして、「自分」というのは世界から広がる輪の外側にある。

一方で、“Doing”寄りの人の意識って、自分が中心にいて、世界が広がっているんですね。そういうふうに「世界の捉え方」でも違いが出るのかなと。

自分の意識の中心に「世界」を置けば、Beingに近づけて、上手に遊べるようにもなるのかもしれない。いわゆる「自我がない」状態というんですかね。子どもって、あんまり自我を感じさせないですよね。

青木
どちらを定数とし、どちらを変数と捉えるか、ということもであるんですかね。僕は、世界を変えようと思ったことは一回もないんですよ。自分を変えたいと思ったことは若かりし頃ならあったかもしれませんけれど、早々にそこを諦めた感があって。

東畑
……でも、居られない(笑)。不思議ですね。今のって、居られそうな人の話の流れじゃないですか。何で居られないんだろう。

流動的で不確実な現代だからこそ、Beingではいられくなる

青木
だからこそ、あまり人と自分を比べないようにしようとは思っています。僕はカルチャーとしてはストア哲学に影響を強く受けているので、自分をできるだけ相対化して見て、自分をコントロール下におこうとしています。

東畑
そうか。ストア哲学は、そういう意味では「居られない哲学」ではあるんですよね。ストア哲学は、世界と自分を切り離したり、手を出せるところを見極めていこうとしたりと、非常にコントロール性を重視する哲学なんです。

石川
言い換えると、“Doing”を重視している。

東畑
そうそう。僕らの心に競走馬とジョッキーがいるとしたら、走っているのは馬で、ジョッキーがコントロールを担当しています。ストア哲学は「いかにジョッキーに鞭を打たせるか」を重視するコントロール志向にあるんですね。一方で、Beingや「居る」は、そのコントロールを外して、誰かに委ねることにある。それは先ほどの、新幹線で寝ちゃうという話と同じです。

石川
じゃあそのためには、やっぱり死ななきゃいけないんですか?

東畑
そこにつながっていくわけですよね。死ぬというのは絶対的な依存状態ですから。ただ、なぜ「死ぬ」までいかないとコントロールを外せないのか(笑)。

『居るのはつらいよ』では、「お母さんにお世話されている赤ちゃん」というメタファーをよく使っていますが、おそらくBeingとはそういうことのはずなんです。

お母さんが全てをやってくれていたことから、次第に「自分で食べなさい」「トイレはここで済ませない」とコントロールを利かせるようになっていく。やがて気づいたら自分自身をコントロールでがんじがらめにしてしまって、困っているみたいな。

石川
もしかしたら、「成る」を経てしまうと、“Doing”へ移っちゃうんじゃないですか。つまり、僕らでいう成人が一つのタイミングですよね。

東畑
それは石川さんが言った「居るという不完全な状態」であることに、心のどこかで怯えるようになっているわけですよね。

青木
今の話を聞いて思い返すと、ストア哲学はとても強い自己責任論の立場をとっています。僕はローマ五賢帝でもマルクス・アウレリウスが好きで、彼の『自省録』を読んでいても、基本的には「神のいない人生」を生きていることがわかります。

つまり、根本的には自分で自分の人生をコントロールできると考える流派は、信仰から大きく距離を取っている。要するに、運命論に対して自己責任論が機能している。運命論や宿命論で生きていた時代の人って、「居る」とか「成る」とかよりも、そもそも「成らない」んですよね。羊飼いが王様になったりは滅多にしないわけで。

東畑
階級が固定的ですものね。

青木
王様にしても、王権神授説のように、「成る」根拠は「神が決めたから」だとされる。それを覆すことになったのは、おそらくニーチェの言う「神は死んだ」のように、神という存在を心で殺すことによって、人間が自由になったからじゃないですか。ただこれって、それほど昔のことではない気がするというか。

東畑
マルクス・アウレリウスは僕も面白いと思います。なぜなら、彼は『自省録』を戦場でずっと書いていたわけでしょう。もともと哲学を志していたのに、攻めてくるゲルマン民族と戦って回る日々。その血生臭い、非常にリスキーな生活をしているときの夜に、自分へ向けて『自省録』を書いた。それがストア哲学として残ってきた、と。

ここにある学びは、環境が非常に不確かで、コントロールが一切利かない中で、あの思想が生まれてきたということです。最近になってマルクス・アウレリウスが注目されているのは、僕らも彼のように流動的で不確実な世界を生きているからではないかと。

逆に、身分が固定的だった世界って、安定しているんですよね。基本的にBeingの世界は「時間が円環的」というか、日々も世代も繰り返しです。それが、自分でキャリアを作っていかなければならないときは、あまりに不確実性が高いので、とてもBeingだけではいられない。

石川
時間の流れが違うんですねぇ。

青木
「成る」のは、すごく怖いことですよ。ビジネスでいえば、変数が固定化してしまって、モデルを変えずとも確立するほどに「成って」しまうのは、それこそ永続性を失ったことと同義ですから。

だから、おそらく周りが「成った」と思っていても、本人たちはそうと全然思っていない。ものすごい怖さを抱えているから、余計に僕はBeingではいられず、Doingへ移ろうとしていまう。

友達にも「告白」する時代がきた

東畑
聞いていて思ったのですが、“Being”は「自由」ではないですね。「居るとは未成熟」の話と同じですが、赤ちゃんは不自由なわけですから。

でも、実は僕らも「不自由だとラク」だと思ってますよね。『居るのはつらいよ』でも温泉旅館のメタファーを多く出しましたが、旅館やホテルは「する」ことが決まってしまった不自由さがある分、「居る」に集中できる。食事も全部決まってますし、自由度が低いんですよ、温泉旅館は。

つまり、自由と引き換えに「居る」が生じてくるんだけれども、その「居る」が案外に容易くアサイラム(刑務所)にもなってしまう。そうすると、再び僕らは自由を求めだす。この関係性を、どう捉えたらいいんでしょうね。

石川
田舎の駅舎へ行くと、なかなか電車が来ないから、じいさんとばあさんが平気で2時間くらい「居る」んですよ。それなら、電車が来る直前に来ればよくないかと思うんですけど。

ケータイを触るでもなく、ずっと「居る」だけ。僕は待っているじいさんに尋ねてみたことがあって。「何か考えているの?」と聞いたら、「そうだなぁ……昔にあった女性との良い一夜を思い出していた」とか言うんですよ。何じゃそりゃ!じいさん恐るべし!と(笑)。

東畑
ハイデガーが退屈について同じ駅舎でぼんやりと待つ例を書いていましたけど、このおじいさんはそこで「遊び」をするわけですね。

石川
しかも、貴族の「遊び」ですよ。

青木
もしかすると、「居る」ことと、ある種のセクシュアルなことには関連があるのかも?

東畑
生産性に結びついていないのがいいのかもしれない、どうなんだろう。

石川
「ピダハン」って知ってます? アマゾンの奥地にいる民族で、神という概念を持たずに、右も左も、数も色も存在せず、特殊な言語を持つそうです。ピダハンの人たちは日々何をして遊んでいるかというと、男性たちは互いの生殖器を引っ張り合ったりして、笑って過ごしているんだとか。でも、子どもって、そんな感じだなと思って。

青木
そういえば、チンパンジーの一種であるボノボの社会に争いが少ないのは、同性であろうが異性であろうが、何かしらの緊張感が生じると、すぐセクシュアルな接触行為をするからだと読んだことがあります。

東畑
あ、ちょっと今、話が前へ進みましたね。

僕は一時期、関心を持って霊長類たちのストレス解消法みたいのを調べていました。チンパンジーは心が傷つくと、信頼できる仲間のところへ行って、指を差し出すんです。すると仲間は、その指を甘噛みしてあげる。

本来的には、チンパンジーの顎は著しく発達しているので、本気を出せば指は砕けるわけです。だから、甘噛みは「敵ではない」という合図になるんですね。

つまり、「敵ではない」とか「安全である」という状態が積み重なることで、ケアが芽生えてくる。だからこそ今、僕らはセックスや平和という問題を扱ったんじゃないでしょうか。

青木
なるほど! 鋭いです。

石川
平和は「平」と「和」ですから、上下のない「平な関係」ってことですよ。でも、出会った人が敵でないことを見分けるのは結構難しいですよね。

青木
特に人間はね……昔よりどんどん難しくなってる。そう思うのは、「友達」という言葉のハードルが上がっているからじゃないでしょうか。

僕は善樹さんと何度も話したり、食事を共にしてたりしているけれど、「僕たちは友達だから」と他人に言うのは、まだ少し抵抗がある。

石川
まだ言えませんか(笑)。

青木
僕が若かったときと比べたら、どうもね(笑)。つまり、「どこまでが友達なのか」という認識が合わなければ言いづらいと感じるのは、結構に現代的な感覚だと思うんですよ。それこそチンパンジーの甘噛みのような「わかりやすさ」が取り戻されない限り、難易度は上がっていってますよね。

石川
でも、そこで「僕らは友達だよね?」と告白し合うと、お互いに何だかホッとする感覚もあるはずで。僕は海外の研究者にも、自分からよく「ぼくら友達だよね」と告白してみるんです。そうすると、向こうもうれしそうに「そうだね!」ってなる。

「好きです」と告白するのと同じく、友達も告白する時代にきているんじゃないですか。

青木
チンパンジーの甘噛みだって告白ですもんね、ある意味。

石川
無言の告白ですよ。

そもそも友達って、どうやってなるものだっけ?

東畑
友達って概念は自由とバーターにありますよね。強制されて友達にはなれない。同僚や幼なじみは厳密には友達じゃないですからね。

石川
同志という言葉はありますよね。でも、同志は“Doing”でつながっている関係性っぽくないですか? 友達は“Being”の関係性がしっくりきますけど。

東畑
同志や同僚という間柄の人が、気づいたら友達になっている。ただ、通常なら何らかの選択が入ってるところを、それなしに友達になっちゃってるというのが熱いんですよね。

青木
子どもの頃ってそうだったんじゃないですか。あまり選択して友達になってないというか。

東畑
そう。だから、そこにあるのも一種の「依存」ですよね。友達を作るのにも、決定しないのが大事なんですね。「友達を作るテクニック」みたいなものを駆使するよりも、なんとなくその場の流れに身を任せていたら、ふいに話せるようになった……といったように、流されたほうが基本的にはいい。

青木
さきほど善樹さんが旅行について話していましたが、意識的に取り入れることもありませんか。仲よくなれるかもしれない人や関係を深めたい人と、一旦は旅行してみる。僕はそういう機会がよくあるんですが、それは大人になってから身につけたスキルであって、「旅行したい」が先にくるわけではないんですね。

どちらかといえば、少し面倒くさい気持ちもある。でも、旅行中は依存関係になれますよね。僕も今、言われて思ったけれど、相手にどうしても依存せざるを得ない。

東畑
「任せる」シーンが出てきますもんね。

青木
メンバーも数人しかいないし、寝起きをともにしたりもする。そうすると、やっぱり帰ってくる頃に「友達らしき空気」が出来上がっているんです。だから善樹さんとは、僕が今一番に行きたいサンマリノ共和国へ旅行したら、これからは「友達です」って言えるようになると思う(笑)。

石川
心からね(笑)。

「信頼」と「信用」のちがいって?

石川
友達の話も含めて、「信頼」と「信用」の違いかなって思ったんです。信頼を築くのは大変だけれど、失うのは一瞬なんて言うじゃないですか。あれ、僕はウソだと思ってるんです。

東畑
あぁ、いいですね。

石川
一瞬で崩れるのは「信用」なんですよ。そして、信用はどれだけ重ねても信頼にならない。なぜなら、基本的に相手を疑っているからです。

青木
たしかに与信とも同じですからね。

石川
でも、親が子供に向ける気持ちって「信頼」なんですよね。個人的に腹を決めた「信頼」は、なかなか揺るがないものです。たとえば、夫は妻を信頼しているが、妻は夫を疑っているみたいなことって、やっぱりあるわけですよ(笑)。

東畑
信用が停止する可能性が!(笑)

石川
そうそう。これは友達でもあり得ると思うんですよね。だから、信頼関係って「決め」の問題なんじゃないか?と。

東畑
いや、「決め」じゃないとも思いますよ。自然と「そうなる」ものじゃないかなって。旅行もそうですが、接触時間にキーがある気します。二人は、毎日、LINEする人っています?

石川
いないですね。

青木
いないなぁ。

東畑
そこを超えていけると、信頼になりません?

青木
なるほど、それはどう見ても友達ですしね。

子供の運動会や盆踊りに馴染めない人の「あり方」

石川
“Being”にも、ひとりがいい人と、みんながいい人がいるんでしょう。

東畑
そうですね。だから、「みんなで、居る」が一番の憧れですかね。

青木
憧れます。でも、「みんなで、居る」って、かなり涅槃の境地なのでは?

東畑
そこまでいきますか(笑)。でも、社会一般では、きっと珍しくはないことなんです。たとえば、子供の運動会は特にすることないけど、みんなは楽しんで見られたりする。盆踊りにだって抵抗なく混ざれたりする。結構、みんなで居るをやっているんですよ。でも、それに 馴染めない人もいますよね。

青木
僕はどちらかといえば、馴染みきれないほうかも……。

東畑
その違いは、おそらくコミュニティに属して「居る」ことができるかどうかなんでしょうね。盆踊りに混ざれる人は、どこかのタイミングでコミュニティで習っているんです。コミュニティにうまく所属できないと盆踊りを踊れない。

青木
あるいは「居る」を軽視しているともいえる。「する」ために「居る」を捨てている……というか。

東畑
たしかに、おっしゃるとおりだ。

青木
僕も同じタイプだから思えたんでしょう。

石川
それでいうと、僕も同じタイプ。だから、ちょっと練習しなきゃいけないですね。

東畑
盆踊りだったら、月に1回ある町内会の集まりに、毎週顔を出すところから。

石川
「居る」ことを始めないとね。ただ、それほどの時間を取れる興味が続くかが問題(笑)。

青木
それって、不自由さとのトレードオフですよね。「居る」ということをゴールみたいに捉えるとつらくなる。ゴールというよりは、F1カーでいう「ピット」みたいなものでしょう。

東畑
そうそう。ピットですね。

石川
“Doing”と“Being”に戻すと、やはり適切なバランスは個々人で違い、それを知るのが大事なんでしょう。

“Doing”と“Being”のバランスに「信仰」が効いていた

青木
バランスを取る上で、僕が今思う解決策は「信仰」なのかもしれないな、と。僕もそうなのですが、信仰の要素が実はすごく足りていない。

東畑
信仰って、言い換えると「委ねる」ですからね。

青木
そうそう。だから、「ひとりで、する」へ行きがちな人も、信仰を持つことがポピュラーな時代ならば一定数は救われていたんじゃないかと思うんです。

石川
教会なんて、まさにそうですね。強制的に「みんなで、居る」という仕組みですから。

青木
その生き方って、いつも自分の中に神の存在を感じて、「自分と神の関係性」に気を払うわけですよね。ただ、日本における西洋的な自己決定論って、神の存在を消して輸入してきているから、ズレが生まれる。実際、アメリカの方の信仰心ってすごく強いですよね。

石川
名前からして、デイビッドやジェイコブスみたいに、神に由来するものを付けますし。そう思うと、一時よく聞かれた「キラキラネーム」って個人主義の象徴みたいですよね。

東畑
たしかに、これまでの文化から切り離された存在です。

石川
その上で、自己決定論でいくなら、なおさら信仰が必要になるんですね。

東畑
僕がやっているカウンセリングという仕事は、ある意味でコミュニティから切り離され、自分で自分をコントロールしなければいけないような人たちと向き合うものだと言えます。実際、コミュニティの力が弱まる中で、セラピーの仕事が広がってきたわけですから。

青木
それでいうと、なんだか今日の僕は、治療の必要性を感じましたね……。

東畑
年齢のタイミングとしてもいいかもしれませんよ。若すぎると受け止めきれないこともあるので。ある程度の年齢になってから、セラピーを受けて、自分を考えることは豊かなことだと思います。

石川
では、「青木さん、セラピーへ行く」という次回予告で、今日は終わりましょうか(笑)。

青木
そうしますか(笑)。あとは、旅行を企画しましょう!

文中でご紹介した作品「居るのはつらいよ」はこちらから!

PROFILE


臨床心理士
東畑開人
1983年生まれ。専門は、臨床心理学・精神分析・医療人類学。京都大学大学院教育学研究科博士課程修了後、沖縄の精神科クリニックでの勤務を経て現在、十文字学園女子大学准教授。慶應義塾大学などで非常勤講師もつとめる。2013年日本心理臨床学会奨励賞受賞。



予防医学研究者、博士(医学)
石川善樹
1981年、広島県生まれ。東京大学医学部健康科学科卒業、ハーバード大学公衆衛生大学院修了後、自治医科大学で博士(医学)取得。(株)Campus for H共同創業者。「人がよりよく生きる(Well-being)とは何か」をテーマとして、企業や大学と学際的研究を行う。専門分野は、予防医学、行動科学、計算創造学など。