1億再生回数を超えるPVをつくり、多くの観光客が訪れる新たなカワイイ名所を作ったその活躍の裏では、たくさんの葛藤がありました。
原宿が無くなる?危機感から見つけたKawaiiという概念。
──海外への展開と並行して、日本でもお店運営以外の活動はされていたんですか。
そうですね。ワールドツアーに行く2年前の2007年に、このままだと原宿がやばいなと思って「H.U.G.(原宿アンリミテッドジェネレーション)」というイベントをやりました。
表参道ヒルズができて、H &Mなどのファストファッションが入ってくるぞという時で。ホコ天もなくなって時間が経っていましまったし、このままでは、原宿らしいものが全部なくなってしまうと思ったんですね。
ずっとやばいとは言っていたんですけど、誰もなにもしてくれないから、もう自分でやるしかないかと思って。原宿にはたくさんのカルチャーがあったんだということを伝えたくて、
1:ストリートファッション、2:クラブカルチャー、3:お笑い、4:カワイイ、5:アート
という5つのテーマで、各キーパーソンをゲストに呼んでイベントを開催しました。
振り返ると、その時初めて「原宿」と「カワイイ」というキーワードでイベントをしたんですよね。
──ワールドツアーに行く前にそういったイベントをされていたんですね。
あとは、2010年にパルコミュージアムで開催した「ポップルズの世界展」に関わった経験も大きいですね。いまだにその作品を見たという海外の方に会いますし。今でも世界でKawaiiの世界観のお手本になっているようです。
ポップルズというのは、アメリカで昔から親しまれているキャラクターで。それを日本でも売り出すぞってなった時に、今でいうインフルエンサー的なポジションで6%DOKIDOKIとコラボしたいというお話をいただいたんです。
左がポップルズ。1986年に誕生したアメリカ生まれのキャラクター。
そこで、ポップルズの部屋をテーマにしたインスタレーション空間を提案したんです。ポップルズがもし本当にいたら、という設定のもと、ポップルズの足跡が天井についてたりする、カラフルな女の子の部屋を作りました。週末になるとその部屋で女の子が普通に生活しているというライブインスタレーションです。
でも、ポップルズっていうのは、あくまで「子供の時に見た夢の象徴」であって、表現したかったのは、少女だった頃の夢を、大人になって思いっきり叶えている姿なんですね。
それが、海外の人には衝撃的だったようで。
「ポップルズの世界展」でのライブインスタレーション「Girls in the room」(2010)
例えば、子供の時に、生クリームをたくさん食べようとしたら止められるけど、大人になったらできるじゃないですか。本当は、大人になったらなんでもできるのに、社会では「大人」っていうものにならなきゃいけないから、それはできない。でも、実は、やれちゃうんですよね。
日本人だったら、大人になってもぬいぐるみを買ったり、アニメを見たり、子供の時の夢を大人になって実現することに抵抗はあまりないかもしれませんが、アメリカ人や海外の人たちはそういうわけにはいかないようで。
つまり、自由でいいんだって。解放されるというか。それが、「カワイイ」という概念の中に含まれていて、世界に受け入れられたのかなと。これは、自分の作品の全てを通して表現していることで、この軸は、今も変わりませんね。
アートディレクターへの一歩。きゃりーぱみゅぱみゅでブームが爆発。
──増田さんが美術を担当したきゃりーぱみゅぱみゅの一番最初のPV「PON PON PON」の部屋はまさに子供の夢を大人になって叶えたようなものでしたね。あれは、2011年で、ポップルズの部屋の1年後ということになりますね。
そうですね。中田ヤスタカさんと原宿の女の子で何かやるという話になっていたようで、H.U.Gやポップルズの部屋を観た関係者のつながりで「原宿」なら増田セバスチャンを入れないと、ということになったんだと思います。きゃりーぱみゅぱみゅが6%DOKIDOKIのお客さんだったこともありますしね。
──「PON PON PON」はものすごいヒットでしたよね。現時点で1億3000万回再生されています。
Youtubeの存在は大きかったですよね。その頃にはMy SpaceからFacebookに変わってきていて、シェアする文化ができていたのも大きくて、どんどん拡散されていきました。
ここまでのヒットは、正直想定外でしたけど、でも狙っていたこともあって。というのも、僕は、このPVの話が来た時に、見るのは、僕らがワールドツアーで出会った世界の子たちだと思ってはいたんです。だから、その時点でのきゃりーぱみゅぱみゅの国内のファンというよりも、外国のファンの子達を意識して作りました。
部屋に散らばっているのは、海外の子たちが懐かしいと思うようなものなのも良かったんでしょうね。あれが日本のお菓子だったら違ってたと思うんです。
──全部海外のおもちゃやお菓子なんですね。
そうです。
──どうやって集めたのですか。
僕と6%DOKIDOKIスタッフのコレクションです。もともと、スタッフも6%DOKIDOKIのお客さんだから、もう今では売っていないセレクトのおもちゃやオリジナルのアクセサリーなんかをたくさん持っていて。本当にすごい量で、2トントラック1台分ですよ。
きゃりーぱみゅぱみゅもお客さんだったから、きっと彼女が懐かしいとか、欲しいなって思ってたものもたくさんあると思います。
──6%DOKIDOKIの歴史がぎっしり詰まっていたんですね。
そうですね。あの部屋を作れるのは、僕たちだけだったと思います。
あの後、世界中で、同じようにおもちゃを並べる作品のブームがあったんですけど、結局真似できなかったと思うんです。乱雑にあるようで均整のとれたビジュアルっていうのは、日本人がなせる技なのかもしれませんね。
──きゃりーぱみゅぱみゅに関わるようになってからアートディレクターのお仕事が増えていったんですね。
増えましたね。この人に頼んでもいいんだって思ってもらえたんだと思います。
それでも、なかなか常設のアトリエを作るまでにはいかなくて、「つけまつける」の美術は原宿の6%DOKIDOKIの上にある事務所で作ってたし、その後も、案件が入るたびに作業場としてレンタルできる廃校の理科室を借りてつくってました。
活躍の裏での葛藤。自分の作品をつくりたい。
──その後、きゃりーちゃんとは、いつまでお仕事をされていたんですか。
PVは、2013年の「ふりそでーしょん」までで、コンサートは2014年のアリーナツアー「きゃりーぱみゅぱみゅのからふるぱにっくTOY BOX 」の演出までです。彼女が18歳でデビューして21歳くらいまでのとても濃い時間を一緒に過ごしましたね。
そして、同じ2014年にNYで僕がアーティストとしてデビューして、自分の活動がメインになっていきました。
──アート活動を始められたのは、なぜですか。
アートディレクターの仕事にも毎回真剣に取り組んでいますけど、あくまでもクライアントやお客様のためにものを作る訳なので。そればっかりやってたら、ある時、思いっきり自分の好きなことやりたい!ってなっちゃったんですよね。
それで、2013年に自分でお金を出して、横浜のBankARTのオープンスタジオに応募して、面談してもらって場所を借りて、学生を集めて一緒に公開制作しながら2m以上の大きな作品を作って。「僕はアーティストになります。NYで個展をやります!」って言い張って。わざわざ宣言することでもないかもしれないし、その時はなにも決まってなかったんですけど。
それで、本当にその半年後の2014年にNYで個展ができることになってしまい、それが想像以上にたくさんの人に集まってもらったことで自分のアート活動の機会が増えました。
──アートディレクターの仕事は好きなことができなかったのですね。
うーん、そういうと語弊もあるんですが、当時僕は業界ではほぼ無名だった訳ですから、「色を抑えてください、派手すぎます」って言われることも多くて。こっちの方が絶対面白いのになんで抑えなきゃいけないのかなって。
逆に、今はもっとカラフルに、ぶっ飛んだものにしてくださいって言われるんですけどね。こっちが抑えちゃうくらい。
──今は増田さんといえば、カラフルって明確に期待されているんですね。
そういうことなんですかね。
2年弱で30万人来場。KAWAII MONSTER CAFEの大ヒット。
──増田さんがプロデュースした「KAWAII MONSTER CAFE(カワイイモンスターカフェ)」がオープンしたのは、NYでの個展の翌年2015年ですね。
え、そうなんですか。確かに、2015年ですね。わー、時の流れは早いですね…。
──新しい観光地として定着してきましたね。
そうですね。オープンして2年も経たないうちに、来場者数が30万人を突破したそうですよ。
──もともと海外の方を意識して作られたんですか?
実は、リクエストは何もなくて。好きなことをしていいって言われたんです。とにかく話題になれば、それでいいって。僕にとってはすごく嬉しいお題です。
それで、今までずっと、海外から原宿に来た人たちにとって、彼らが期待している原宿らしい場所って実はそんなにないよなぁ、せっかく来てもらったのに悪いなぁ、って思っていたから、きちんと原宿を感じられる場所を作りたくて。
最初は、中でジェットコースターが走ってるとか、床が全部プールになっていて、座席は蓮の花で、座るとぷしゅーってお客を包みこむとか、色々案を出したんだけど、全部ダメです、無理ですって言われちゃって。
じゃあ、ケーキのメリーゴーランドにしますってなったんですけど、それを密かにステージになる設計にして。
──密かに?
そう。うまくヒットしたので、今でこそ、このステージでショーをやっていますけど、もともとは僕が勝手に、KAWAII MONSTER CAFEを僕にとっての「天井桟敷館*」にする!と言っていて。
*編集注:寺山修司が主宰する演劇グループ「天井桟敷」が渋谷並木橋に開いた日本初のアングラ専用の劇場
──それで、内緒で舞台を作っちゃったんですね(笑)そういう物作りは、大道具だった経験が役に立ちそうですね。
そうそう。作れちゃう。
──やはり海外のお客さんが多いんですか。
50%以上が海外からのお客さんだそうですよ。平日だと、海外の方しかいない時もあります。もう、最近、海外からの取材は、KAWAII MONSTER CAFEのことばっかりです。
この年は、同時にサンリオピューロランドのパレードの立ち上げもあって、これもスタートして数ヶ月で前年1年間の入場者数を超えちゃったようで、想像以上にヒットしましたね。
同時進行で、浜田ばみゅばみゅも作ってましたし、この年は大変だった…。
──浜田ばみゅばみゅも、Youtubeで再生数が2500万回超えてますね。
おじさんなのに可愛い!って、海外の人は衝撃的だったのかもしれないですね。個人的にもすごくお気に入りの作品です。ただ、とにかくこの時期はいろいろ重なって、どんどん忙しくなりましたね…。
再び訪れた葛藤。アートを考える世界旅で人生の再インストール。
──そういったアートディレクションのお仕事と並行して、アート活動もされて。2017年は文化庁文化交流使として、世界各地を周られましたね。この役目を受けようと思われたのは?
とにかく、「考える時間」が欲しくて。KAWAII MONSTER CAFEがヒットしちゃったから、継続的にメニューを考えたりショーを企画したりということも始まって。6%DOKIDOKIと、KAWAII MONSTER CAFEと、アートディレクションと、海外でのアート活動と、考えることがどんどん増えて。スタッフは増えるけど、自分がジャッジしないといけないことが多すぎて。打ち返すのは簡単だけど、考えるってことが一番難しくて。
アートディレクターの仕事で忙しかった2013年と同じような状態になっちゃったんですよね。
──3年ごとにきちゃうんですね。
そう。とにかく、文化交流使として1年間世界を周るっていう時間をもらうことで、人生の再インストールがしたかったんです。人間て生きているとアップデートを繰り返していて、でも、本当はいらないソフトとかもついちゃうんですよね。そういうのを全部リセットして、再インストールして、再起動したら何が見えるかなって。
──実際、どのような活動をされたんですか?
オランダでは、アートパフォーマンスを通して、「ものを作る」ということを考えましたね。
というのも、2014年にNYで個展を開いて、アーティストとしてデビューして、その後は、作品がいくらになったとか、いくらで売れたってことばかりになってしまって。アーティストって本来、作品を通してメッセージを投げかけていくものだと思っていたのに、お金のことばかり言われて、だんだん自分が高級インテリア職人のように思えてきて。それはちょっと違うなと…。
オランダという場所で、改めて「ものを作る」って何だろうということをちゃんと確かめたくて。
一人でトランクを持ってオランダに行って、自分で部屋を借りて、若手クリエイターが集まる倉庫街に行って、小さなスケッチを持って色んな人に「これ面白いからやりましょうよ」って言ってまわって、それでどれだけのことができるかってのをやってみようと。
最終的には、スタッフが100人以上、お客は1000人以上、お金も1000万以上集まりました。お金がない人は、自分の体だったり、物だったり、いろんなことを提供してくれて。
現地の人々とアートパフォーマンスを披露した後の一枚。
やっぱり、ものを作るエネルギーってあるんだなって思うことができました。お金の価値が上がっていくだけがアートじゃない。ものを作るっていうこと自体が人を突き動かしていくということが確かめられたと思います。
そして、その後は、アフリカや南米をまわったあと、ニューヨーク大学に客員研究員として所属しながら、本当にアーティストとして、僕がこれから何ができるのかっていうのを考えました。
まあ、実際は、並行して日本でアートディレクションの仕事は動いていますし、結果的にゆっくり考えるような時間はなかったんですけどね。ただ、海外で過ごす1人の時間は貴重でした。
──今、日本に帰ってきて、何を思いますか。
頭がまだ整理しきれないけど。一つ言えるのは、日本で今起きてる問題みたいなものはすごく小さくて。世界基準から日本だけが外れているというか、起きていることが特殊すぎて、本質を見逃すんじゃないかと思ってしまいます。
スピード感もないし、組織の中で話が小さくなってしまうことも多い。クリエイターは、ものを作ることによって妄想して膨らませていくのに、それを小さく、普通にするサイズにしよう、みんなで普通になりましょう、平均化しましょうっていう作用が効いてしまう。もっと協力して、もっとみんなで面白くすればいいのにって思いますね。
Kawaii の本質をとらえ、世界基準で再び戦う
──増田さんは20年以上に渡って、本当にたくさんのことをされてきましたが一貫してやりたいと思われていることはなんですか。
時代を変えたい、とはいつも思っています。演劇でも、経営でも、ファッションでも、アートでも。
──「カワイイ」はある意味ひとつの時代を作ったのではないかと思うのですが。
そうですね。だから、それを壊したかったんですよね。2014年にNYで作った作品では、それを表現したくて。「カワイイ」という概念を作ったけど、それは罪なんじゃないかって。カワイイという逃げ込むものを作らなければ、成長できた子もいたのではないかって。だから、タイトルは「Colorful Rebellion -Seventh Nightmare-」で、副題の和訳は「七つの大罪」っていうんです。
──ご自分で作った「カワイイ」の時代を壊そうと。
そうですね。個展の少し前、2013年の終わりに6%DOKIDOKIの店内をリニューアルをして、テーマを「Beyond the “Kawaii”」としたんです。というのも、カワイイが本質を理解されないまま、表面的な部分を消費されてしまっている気がして、カワイイを超える、カワイイのその先を考えないとと思ったんです。
実際、思った以上に早く表面的な「カワイイ」ムーブメントには終わりがきましたよね。大人によって焼け野原にされてしまいました。
──もう「カワイイ」は焼け野原なのですか?
1回焼け野原になりました。本当は「カワイイ」を必要としていない大人たちがビジネスの匂いを嗅ぎつけて乗っかって、本質を理解しないまま、僕が見せた「カワイイ」の一つの形を模倣するだけだったから・・・見た目だけのものをやり尽くせば、勝手に終わってしまいますよね。僕らはずっと続けていくのに、ひどいものです。
今はむしろ、そんな大人たちが一回いなくなったチャンスのタイミングなんです。
──増田さんが思う、「カワイイ」の本質とはなんなんでしょう?
僕は「カワイイ」を哲学や思想だと考えています。「カワイイ」の定義は、「自分だけの小宇宙を作ること」だと考えていて。つまり、誰にも邪魔されない、本当に「カワイイ」と思うものを、自分の中に持つことで、自らを解放できて、自由になれるというか。
大人になったらこうしないと、とか、幸せな家庭はこうあるべきだ、とか、凝り固まった既成の概念を全部フラットにして、自分だけの信念を持つことによって、幸せな人生になるというのが「カワイイ」の一つの答えなのではないかと。
そして他人が「カワイイ」と思うこと、つまり、それぞれの小宇宙を許容し合うことが、平和へのアクションだと思っています。原宿はそれを実現することが可能な街だと考えています。
こんな風に、これからは今まで以上に大きな声で本質を語っていかないといけないし、自分自身も追求したいと思っています。
──増田さんに刺激されて、新たな「カワイイ」が日本中で生まれると良いですね。
きっとそうなりますよ。次世代から生まれるものを、僕はとても楽しみにしています。