ウェブディベロッパーの夫とともに「写真」「広告」「ウェブ制作」という仕事はしつつも、ふたりの肩書きはあくまでも「暮らしかた冒険家」。保育園に通う息子と共に、北海道で3人暮らしをしつつ全国を飛び回り、たくさんの「いいこと」を発信し続けています。
その活躍は、さまざまな人づてに「おもしろいことやっている人がいるよ」「坂本龍一さんに暮らしぶりを『アートだ!』と言わしめたとか」など、ワクワクしたテンションとともに私の耳に届いてきました。
自分自身の働き方、社会における広告の意味、自分の生きる社会を、真摯に見つめてきた伊藤さん。自分がやるべきこと、できることにとことん向き合ってきたお話は、「じゃあ私になにができる?」という問いを与えてくれるものでした。
前編は、伊藤さんが、様々な試行錯誤を重ねながら「暮らしかた冒険家」になるまでのあゆみをお届けします。
新聞記事で見つけた「広告×社会貢献」にノックアウトされる
──「暮らしかた冒険家」という唯一無二の肩書きになるまでの仕事の変遷や、生き方についてお聞きしたいです。先ほど、「元カメラマン」っておっしゃっていましたが、キャリアのスタートはカメラマンだったんでしょうか。
伊藤
私は最初から複雑系なんです(笑)。
大学生の時に、環境広告をつくっている「サステナ」のマエキタミヤコさんのことを新聞記事で読んで、「この人、私がやりたかったこと既にやってる」と思って、書いてあった連絡先にメールしたんです。
すると奇跡的に返事が返ってきて、インターンのようなかたちになりました。18、19歳の頃から、事務所の掃除や皿洗いをしながら現場に居続けました。その頃サステナでは、「100万人のキャンドルナイト」という夏至の夜に電気をみんなで消そうというムーブメントや、ホワイトバンドのキャンペーンを手がけていた時期でした。
広告と社会貢献や環境問題を掛け合わせることが、マエキタさんはむちゃくちゃ早かったんですよね。今はプレイヤーもたくさんいるし普通になったけれど、あの頃の新鮮さといったら、本当にすごかったんです。
そうやって1年くらいした頃、マエキタさんから、「知り合いのデザイン会社でマネージャーを探している。菜衣子みたいな人がおもしろいと思う」と言われてその気になってしまって(笑)。大学を辞めて、20歳のときにデザイン会社のマネージャー職についたんです。
というのも、その頃とにかく手に職をつけたくて、19の時に独学でやっていた写真を「写真新世紀」に出して入賞していたので、写真が一番早く手に職つくかも!とカメラマンになることを思いついていました。
普通、カメラマンになるにはまずは撮影スタジオに入るべきなんだけど、マネージャーの話が来たときに、「これって、業界が俯瞰から見えるんじゃない?」と。普通の入り口じゃないところからカメラマンへの道を探そうとしたんです。
そして実際に、デザイン事務所でカメラマンさんがどういう風に請求をあげてくるか、打ち合わせで何を聞くかなどを学んだ上で退職して、カメラマンになるべく、大変なことで知られている撮影スタジオに入りました。
──それは確かに変わったカメラマンのキャリアですし、すでに写真以外のできることが多そうです。
伊藤
そうですね。デジタルの写真が出てきた頃だったので、パソコンが使えることもすごく重宝されました。
父がエンジニアだったので、私は小学生の時から家にパソコンとインターネットがあって、なんの苦手意識もなくパソコン使えたんです。
デザイン事務所にいたから、写真がどういうプロセスを経て世にでるかもかも知っているし、オペレーターとして適任者でした。多くのカメラマンがデジタルでやっていくことに対して手探りな中、私の生い立ちや、デザイン事務所での経歴があったことはラッキーでしたね。
ママの愛情カメラ片手に、隙間ビジネスでやっていく
そして、1年経って独立するんですが、ビックリすると思うんですけど、EOS Kissデジタルで独立してるんですよ。
──それは、いわゆるカメラマンが使うようなプロ用のものではなく……
伊藤
そうなんです。ママの愛情カメラで、ルミネに入っているような大きなアパレルのカタログを撮っていたんです。
その頃はまだ、味のある写真をデジタルで撮っている人がいなかったんです。デジタルだと予算も読めるし、若くて使いやすいという超スキマビジネスでやっていけてました。
カメラマンとして独立した時も、マエキタさんからもらった仕事が多くて、私のデビュー戦は、国政選挙の選挙ポスターだったんですよ。
マエキタさんのクライアントは、環境や社会運動の文脈なので、予算がない。だから、「菜衣子、伊勢丹行ってさ、一緒に選んできてくれない?スーツとワイシャツ」と言われて、最初から一緒にやるみたいな仕事が多かったです。
──やっぱり、普通のカメラマンじゃない感じです。
伊藤
デザイン事務所でマネージャーをやった経験で、基本的な撮影の手配が全部できました。全員のスケジュールを調整してスタジオを押さえたり、細かい調整業務ができたんです。カメラマンって基本はあらゆることが決まってから仕事がくるのに一番最初に相談が来るということもありましたね。
デザイン事務所時代の先輩が独立したときにも「撮影スタジオの予算感も分からないから、スタジオのブッキングからオールインワンで任せていいか」というような、カメラマン以外のこともする仕事がたくさんありました。
スタジオマンをやった後に、有名なカメラマンのアシスタントをするのが、カメラマンの世界のメインストリーム。でも私は、「あの人のところで修行しました」がないから、デジタルの素早さと「写真以外のこともやるぞ」というので、切り抜けた感じでした。
──「なんでもやれるカメラマン」的なキャリアがしばらくは続いたんですか?
伊藤
そうですね。100万人のキャンドルナイトの仕事もずっと続いていて、ウェブディレクションをしていた人が辞めることになったとき、「ウェブサイトは作れないけれど、何のコンテンツがあるかは全部知っているからやってみるよ」と引き継いで、ウェブの仕事に関わり始めました。
はじめたときは、カメラマンって、普通の仕事より1日の単価が高いから、「余っていた時間で頑張ればできるっしょ」みたいな気持ちでしたね。
家族行事はプロジェクト。妻の仕事は、夫の課題解決
──もう1人の暮らしかた冒険家であり夫の池田秀紀さんは、ウェブデベロッパーでウェブサイトを作るお仕事をされていますよね。やはり、仕事を通して出会ったのですか。
伊藤
キャンドルナイトのウェブは、時代の変化とともに、動いてたらおもしろいんじゃない?とか、SNSも組み込んだらいいんじゃない?みたいなやりたいことが出てきました。その時に紹介されたのがジョニイ(池田さんの愛称)でした。
ジョニイは、超いけいけの、イケてる広告代理店から依頼される仕事をずっとしていました。でも、片隅でぼんやり、「広告しなくていいものを広告しているかも」って思っていたそうなんです。
だから、キャンドルナイトの仕事の話を聞いて、「僕はお金いらないから、なんでもやる」と参加してくれたんです。
私が「こんなことしたらおもしろいんじゃないかなー」って言うと、ジョニイが「それ超おもしろい!」って言ってすぐ作業する。打ち合わせを聞いている横で作り始めるから、半分打ち合わせを聞いてないんだけど(笑)。
その後、制作の合宿所みたいになっている我が家にことあるごとに来るようになって…という感じですね。ジョニイは、ここにいれば自分が目指す方向に近そうだ、となんとなく思ったようでした。
──結婚して、やがて2人で暮らしかた冒険家になるんですよね。なぜ、暮らしに着目したのでしょう?
伊藤
私は社会運動への関心の延長線上で仕事をしてきました。一方でジョニイも、社会に対して疑問に思ったことはとことん調べる人なので、「なんで家賃ってこんなに高いんですかね?俺は、こんなに高い家賃払い続けて生きていかなくちゃいけないんですか?」「結婚式っておかしくないですか?」とか、そういう問いを立てる人だったんです。
結婚式を例にすると、「自分たちらしさがないマニュアル通りの結婚式に、僕は300万も400万も使えない!」となりますよね。
──夫婦はどんな役割を担って冒険家として成り立っているのか知りたいです。
ジョニイの問いに対して、私が彼のOKゾーンを探る玉を打ち返すんです。たとえば、「みんなでピクニックをする結婚式はありですか?なしですか?」と。完全にクライアントワークですよ、これ(笑)。
ジョニイがしたいこと、したくないことについて、ひとつずつ「こういうこと?」って聞いていく。完全に制作進行なんです。
──2人じゃないと暮らしかた冒険家は成り立たないですね。
伊藤
そうなんです。ジョニイの不満があって、私のプロジェクトマネジメントがある。予算感やマンパワーがどれくらいあるかも、全部把握して計画を立てるのが私の仕事です。
それが、結婚キャンプとか、熊本の古民家の改修の成り立ちです。結婚キャンプについていえば、雨予報が出た場合にはいつまでにキャンセルすればいいとか、壮大な香盤表(※)ができていました。
※香盤表…撮影などで使用するスケジュール表
キャンプ場で1泊2日の総勢100名が参列したDIYな結婚式「結婚キャンプ」
(撮影:伊藤菜衣子)
ソーシャルメディアは、「いいこと」にチャンスをくれる
──坂本龍一さんともプロジェクトをされていますよね
新婚旅行は西日本を1ヶ月ぷらぷらするつもりが、坂本龍一さんから、「サカモト・ソーシャル・プロジェクト」というプロジェクトのスタッフに誘われたんです。坂本さんが韓国でやるライブをUstreamでパブリックビューイングして、日本中みんなが自宅で主催者になれるよという大プロジェクトです。一部分のシステム作りを依頼されたと思ってフタを開けたら、ウェブ制作を全部私たちがやることになっていて。
新婚旅行中は、何ヶ所か宿を取っていた以外は、融通がきいたので、プログラマーの友達の家に4日くらい泊まって猛烈に開発したりしながら、旅をしていました。
──ウェブを使った大ブロジェクトですね。
そうですね。この開発を経験して、ソーシャルメディアとウェブサイトの領域がおもしろいことが私たちも分かったし、世間も分かってきた感じがしました。
私たちがやったことは、Ustreamで自分たちでウェブサイトを制作している様子を夜な夜なずっと中継していて、それが告知も兼ねているという方法でした。カタカタカタカタってキーボードを叩いている背中だけが写っているの(笑)。それが次第に、「僕も仕事中です」みたいなメッセージが来るようになり、残業のお供みたいになっていました。
ウェブサイトを作っている人たちが裏方じゃなくて、みんなマスコットキャラクター的に外に出て、それさえもPRになったんです。これまでとは全く違うPRや広告の方法論が、とてもおもしろいなと思いました。
──「これからの世界はこっちの方向だ」みたいな感触があったのでしょうか。
伊藤
それもありますね。坂本さんの影響力が大きいから、何万人何十万人が見たパブリックビューイングだったけれど、規模は違えどインディーズのアーティストでもできることですよね。
歌ったり、物を売ったり、自分が食べていくために必要な最低限のお客さんと繋がっていくことができる。そういう人生が、きっとできると思いました。
──ちょっと前の時代までは、伝え方が限られていたわけですものね。
伊藤
仕事の概念も変わりますよね。たとえば、ウェブサイトができたときに、バグがないか確認する作業を、いろんな機種のパソコンとかデバイスでするんですが、「すいませーん!中継を見ている人で手が空いている人、チェックしてもらえませんか?」って言ってURLを書き込むと「safariのバージョン●●、××が見えません」とか「windowsは、××が見えません」というように、スクリーンショットを送ってきてくれるんです。
そういうやり方をすると、専門家にお金を払ってやっていたことも、みんながボランタリーに関わってくれる。関わった人たちは、坂本龍一のプロジェクトを手伝った気持ちで満たされるし、私たちにとっても仲間が増えていく感覚は、今までのお客さんと主催者の関係性じゃなくなっていました。
裏方を手伝ってもらうことによってむしろ、愛が深まっていくことを体験しました。これはきっと、おもしろい人が生きやすい世の中になるのではないか、という予感しましたね。いいことをしている人が共感されて、ちゃんとやってけるようになるだろうって。
地方には、逃げるのではなく攻めにいく
伊藤
坂本さんのライブの本番が終わって、2ヶ月後に東日本大震災が起こりました。あのとき、地方に引っ越すことは「逃げ」と言われたけれど、私は攻める気持ちで地方に行ったんです。一極集中じゃない、もうこんなことが起きない日本がいいな、と思って。
熊本に移住して、東京にちょくちょく来る撮影の仕事はできなくなりました。東京に行くにしても予算が大きい仕事じゃないと採算が合わくなると、仕事はだんだん「カメラマン」じゃなくなってきました。
熊本には建築家の坂口恭平君がいたから、恭平くんの撮影を頼まれることはあったけど、基本的にはウェブの仕事をやっていましたね。ちょうどその頃は、ウェブの仕事が一番おもしろいと思っていましたから。
キャンドルナイトも、中村勇吾さんとつくったひとつのインターフェイスで、ものすごく広がったんですよ。参加表明として郵便番号を送るだけで、ウェブサイトの日本地図上に光が灯る仕組みを2003年に作っているんです。それによってムーブメントがわーっと広がった体感をしていました。
──地方で暮らして、ほぼウェブの仕事に特化して、「2人でユニットでやっていくのがいいよね」ということになったのでしょうか。
伊藤
「2人でユニットでやるぞ、おー!」というよりは、「菜衣子ちゃんに相談すると旦那さんがウェブの人で、ウェブサイトまで作ってもらえるらしいよ」みたいな感じで、ワンストップ感がどんどん高まっていったんです。
後編は、「暮らしかた冒険家」としてのあゆみと、ワークライフバランスに悩みながら模索した、新しい働き方についてうかがいます。
PROFILE
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好きなこと:10時間睡眠、高性能なエコハウス、温泉、味噌ラーメン、シメサバ、友産友消、雪景色、インターネット、合宿、子どもの頭をくんくんする