家族が協力し何百年も続いてきたお店や、生まれたときから身近で見てきた生業を継ぐ人々の胸の内には、「家業」だからこそはたらく、仕事の哲学がありそうな気がします。
しかも、何十年、何百年と代々続いてきたということは、ビジネスをきちんと成功させてきたということ。継続性の裏にある工夫や実践は探りがいがありそうです。
そこで家業を継ぐ人に話を聞きに行こうと、山梨県甲府市にある「五味醤油株式会社」の五味仁さんのもとを訪れました。五味さんは、味噌やこうじを製造・販売する会社の6代目です。
実は、クラシコムのスタッフが甲府を訪れた際にこうじを求め、五味醤油直伝の甘酒を社内で広めたところ、プチブームに。今では、青木の家でも五味醤油のこうじで仕込んだ甘酒を毎朝飲んでいます。
加えて、五味さんと青木には、妹と一緒に働くという共通点もあり、なんだか親近感がわいてきたそうです。
生活に根ざした優れものを醸す五味さん。醸造家としての仕込み仕事のほかに、妹の五味洋子さんと「発酵兄妹」というユニットを組み、手前味噌づくりをはじめとしたさまざまな伝える仕事にも勤しんでいます。
その姿は、もはや味噌屋の枠にはまらない活躍ぶり。その活動の幅の広さにはしっかり戦略があるようです。
街場の味噌屋さんが描くビジネスのかたちを3回にわたってお届けします。
継がなくていいから、継ぎたくなった6代目
青木
五味さんで6代目ということは、創業は…
五味
明治元年なので、来年ちょうど創業150周年を迎えます。
青木
6代目として、「継ぐ」ということを意識して育ったんですか?
五味
両親にはずっと、「継がなくていいよ」と言われて育ったんです。だけど僕は、逆の方向に進みたくなっちゃうから(笑)。
両親はよく「息子さん、将来は味噌屋だね」と言われていましたが、「特に期待してませんよ」みたいな答えを返していましたね。僕に向けても、「違うことやってもいいんだよ」と言っていて、僕にとってはそれがよかったんです。
醸造を学べる東京農業大学を進学先に選んだときに、もう継ぐつもりだったんだと思うんですよ。
青木
「だと思う」くらいの感じだったんですね。
五味
そうですね。なんとなく、くらいの気持ちでした。だけど、大学2年か3年のときに、父親がけがをして、しばらく僕が帰って仕事を手伝うことになった時期があったんです。
そのとき、大学で勉強しているはずの醸造を仕事に落とし込もうとしたら、すごく難しかった。「もし今親父が死んじゃったら、味噌づくりはできないな」と改めて感じました。
そこで、味噌、醤油、酒などを醸造している現場の経営者に会って、いろんな話を聞いて自分の気持ちを固めようとしたんです。その記録は卒論になりました。技術的なことよりは、仕事に取り組む姿勢を取材した内容です。
青木
お父さんの仕事、あるいは家業である「味噌屋」の仕事は小さい頃から見ていて、どう感じていたんですか?
五味
本当に不思議だと思うんですが、近すぎてなにも見えてなかったんです。生活と仕事の境目がほぼなくて、工場と自宅の敷地も一緒なので。
青木
なるほど。「仕事してる感」みたいなものが…
五味
ないんですよ。子供の頃も、工場に行けば工場のおばちゃん達が遊んでくれたり、「配達に行くから乗ってくか」と言われてドライブしたり。
父が昼寝をしているのも、さぼっていたわけじゃなくて、一呼吸おいて仕事をするためには必要なんだなとか、そういうことが分かったのは働き始めてからです。
青木
おもしろいなぁ。生活の中に事業があって、それってお母さんが洗濯する仕事と同じような地平にあった。
五味
そうです、そうです。夏休みや冬休みには店番したり、味噌つめを一緒にやっておこづかいをもらったり、味噌屋の仕事も体験はしていたはずなんですが、あくまでも家の「お手伝い」だったんですよね。
青木
皿洗いを手伝う感覚で、お店まわしたり、味噌のパック詰めしたりしていたってことか。
五味
生活の一部だという感覚が強かったから、働いてみて「思っていたのと違う」ということが結構ありました。良くも悪くも、親が見せていなかったんだと思います。
青木
なるほど。大変なことは見せていなかった。
五味
売り上げがどうとか、売掛が回収できないなんて話は、食卓じゃ言わないですよね。そういう苦労の部分を見せなかった。
青木
だからきっと、はじめて仕事の苦労を実感したタイミングで、いろいろな経営者の人に会って、「仕事」の側面を掘り下げようとしたんですね。
身の丈のサイズ感で、理想へ手を伸ばす方法
五味
いろんなタイプの醸造家に会いに行ったことは、僕の財産だと思っています。行く先々で、味噌や醤油を食べさせてもらうんですが、どれもロングセラーのものだから、必然的に良いものでおいしいんです。
僕が一番刺激を受けたのは、東京農大の先輩で自動車部だった人のもとを訪ねた経験です。彼は奈良の醤油屋の息子なんですが、すごくヘンテコなスポーツカーで現れて、醤油のことを語りまくるんです。
不思議な雰囲気の人なんですが、すごく醤油をつくるのが好きそうで、「こういう人でも、醸造業をやっていいんだ」と気づけた。
変わった人でも大丈夫なんだって後押しされた気になったんです。
ほかにも多くの醸造家に会いに行きましたが、経営者って感じの人もいれば、職人気質の人もいて、生真面目な人もいれば、不思議な人もいる。会社の規模も大小さまざまなところを見て、自分も味噌屋としてやっていけそうだという感覚を体験したんです。
そして、醸造業の会社に就職してから、家に戻ろうと決めました。
青木
なるほど。新卒で醸造の会社に入って、そこにはどのくらいいたんですか?
五味
醤油メーカーに就職したんですが、実家に戻る予定だから、3年契約でお願いしたんです。
青木
初めて仕事として醸造に関わってみて、選んだ道が正しかった感覚はありましたか?
五味
規模が大きめのところに就職したので、醸造はやりたいけど、このスタイルではないと思いました。
「たくさんつくって価格を落として、いろんな人に届ける」ということをやっていた会社なので、もちろん、それも必要なことなんですが、うちで見ていた風景とあまりに違っていたんです。
本来の醸造業って、村や町に1軒ずつあるものでした。なにより流通が大変だったので、近くでとれた米や大豆を醸造して、近所の人が消費していたんです。
だから五味醤油に戻ったら、なるべく近い場所の原料で、無理のない範囲で味噌をつくれたらいいなとすごく思いました。でも、現実は難しくて、今もなかなかできていないんですけどね。
青木
大きくやる価値観と小さくやる価値観がありますよね。そこで、五味さんのように手触りを感じられるような小規模範の価値観を選ぶ人が多いのって、どうしてなのでしょう。僕、そこに興味があるんです。
逆にいえば、大規模につくってたくさん届けるってことの、何が人のやる気を削いでるんだろう。
五味
僕の場合は、会社の体制が、僕が3年で抜けても大丈夫だということが大きかったです。誰もできちゃうことに対する違和感なのかな。
均質なものをたくさんつくることに価値を置いていたら、自分たちのくせや手触りは反映されない。つくり手としては、自分っぽさを付け加えたくなると思うんです。
青木
会社をやっていると、基本的には、いかに属人性をなくして、サステナブルに事業をやるかを追い求めていく傾向がありますよね。
一方で、働く人は属人性がなくなったら困るって思う(笑)。実際、3年間大きなメーカーでお仕事されて、家業に戻って来たときには、やっぱりこっちだ!という感覚がありましたか?
五味
うーん、地産地消でいくぞと意気込んで帰ってきたんですが、現実的にはうちの味噌もずっと続いてきたものだし、お客さんあっての品物だから、そう簡単には変えれないことに気づかされましたね。
青木
なるほど。
五味
今でも、国産の、ちゃんとしたものを原料に使っています。ここをさらにこだわって、農家さんと契約して「原料が1割高くなったから、販売価格も上げる」ってことはできないんです。
うちの味噌を使っている料理屋さんにしわ寄せがきちゃうし、新しいラインでつくろうとなると、相当な手間ですしね。
実家に帰ってきて半年くらいで、僕が夢見ていた「とことん原料にこだわった味噌づくり」っていうのは、すごく難しいんだと実感するようになりました。
じゃあどうしようかと考えたときに、味噌づくりワークショップでなら、材料を自分でカスタマイズできると気づきました。
味噌づくりを教えることに力を入れて、自分の実力が伴ってきたら本製品の方も変えていけばいいと気づいて、気が楽になりました。すごく時間がかかる計画なんですが、ちょっとずつでも進んで行ければいいんです。
実は、夢の実現という以外にも、味噌づくり教室を続けているのには、たくさんの理由があるんですけどね。
中編では、味噌屋なのに味噌を売らない?手前みそ教室にまつわるお話をうかがっていきます。
【中編】街場の味噌屋はサービス業?手づくりを支えるビジネス戦略。五味醤油6代目 五味仁×「北欧、暮らしの道具店」代表 青木耕平
【後編】人が集う場所づくりで、「いいこと」を醸していく。五味醤油6代目 五味仁×「北欧、暮らしの道具店」代表 青木耕平
▼クラシコムでは現在エンジニアを募集しています。
PROFILE
好きなもの:温泉、スケートボード、読書、松本清張、コーヒー、旅行、タイ、お酒、ラップ、味噌汁づくり