後編では、ビジネスの世界にも安田登さんの視点や知識を広げていきます。短期的な成果に目が向きがちなところが多く、リバースエンジニアリングにも限界を覚える環境下で、いかに新しいものを生み出すのか。その糸口をつかむためには、現状を疑うことから目を逸らしてはいけません。
さぁ、ビジネスとして、会社として、いかにこの世界を生きるのか──。
現実を2D化することで抜け落ちるものがある
安田
文字って、簡単に言っちゃうと、微分だと思うんですよ。
青木
微分、ですか。
安田
えぇ。「犬」という文字を見て、頭にそれぞれのイヌを思い浮かべるように、本来は3Dであるものを2D化したものです。僕たちはその2D化した文字を見て、頭の中に3Dとして積分しながら再現する。積分すると積分定数がつきますから、みんな違った結果を出しますね。
しかし、犬は横から見た姿を文字化しているのに、牛は正面から見た姿なんです。これは漢字だけでなく、楔形文字でもそうです。犬やほかのほとんどの動物は横から見た形を文字にしているのに、なぜ牛が前からなのか。それは、牛は家畜なので、正確にカウントする必要があるからです。ということは、物体を2D化する「文字化」のときに、僕たちは恣意的にそれを行っているということです。
だから、言ってしまえば、これもひとつの嘘です。嘘というのが言い過ぎだとしたら、操作的だといってもいいでしょう。あらゆるものを微分して、すなわち2D化して理解することが、僕らにとっての「普通」になってしまっています。そして、この恣意的な操作をさまざまな「2D化」のときに、無意識のうちに行ってしまっています。このことに常に意識的になっている必要があると思います。
青木
なるほど! 物体や事象を2D化したときに、ある種のバイアスがかかったり、抜け落ちたりするものがあると。
安田
たとえば、企業がリストラを考えるときに損益分岐点を使う。固定費と変動費を加味して売上を残したいとき、固定費を下げれば良いという考え方ですね。損益分岐点の図などを見ると「ああ、なるほどな」と思ってしまいます。しかし、これはよく考えてみるとすごく変な話です。
固定費の中には大きく分けると、家賃と人件費がある。家賃を削った場合の影響と、人件費を削った場合の影響は、全く別物です。人件費を削るとすれば、その人の家族が大変になりますし、解雇させられた同年代は「次は自分かも?」と冒険心まで削がれたりする。でも、そういう影響は表れないものとして処理します。なぜなら、そういう気持ちや思考は二次元の図では表現できませんから。
青木
モデル化することで実際のことから抜け落ちてしまう。でも、経済学の多くは、まさにそういうふうに思わされそうじゃないですか?
安田
そうですね。経済学や経営学では、そういうケースも多いです。
青木
たとえば、僕が「損益分岐点を出してくれ」と財務担当に言うじゃないですか。言った瞬間に「あぁ、社長が損益分岐を気にしている」という働きかけによって、財務担当の中では思考の前提が変わってしまう可能性がある。
人間のアクションは「興味を持つ」くらいのレベルで変わってしまうように、非常に複雑で定性的な世界です。それでも可能なかぎり定量化した結果をもとに意思決定する方が立派で、「定量化」に頼らず、定性的なものを定性的なまま把握して意思決定するやり方は拙い経営方法だといわれることが多いように思うんですよね。でも、見方を変えると、正しい意思決定をするのに「定量化」に依存しているなら、それもある意味では拙いのかもしれない。
定量化はしていないんだけれど、拙いとは言えない。そういう新しい経営のコンセプトがないのかなぁって、すごく思っているんです。そんなときに、論語で説明されている物の捉え方は「わからないことと、わかること」が区切られていた気がするんですよね。考えなくてもいいゾーンがわかりやすいというか。
安田
「点と面の世界」ですね。
青木
安田さんも著書の中で、古代の人たちは祭禮の際に、場合によってはお酒を飲みまくったり人を殺めることで正気を失い、わからないゾーン、考えなくてもいいゾーンに入り、神がかり的な役割を果たしていた。でも、そんなことは続けられないから、当人は訳がわからない「礼」をインストールして体現した「型」がその役割を果たしている、と書かれていましたよね。
現代の経営についても、定量化して意思決定するという以外のテクニックもあるのではないか。定量化すれば意思決定できるというテクニックを身に付けていれば巧みな経営者で、それを使わないのはどうであれ拙いと思われていることに対して、何かできないのだろうか、と。
ビジネスにとっての福音は、未来を考えないこと?
青木
僕はクラシコムという会社を始めて13年目くらいなんですけれど、最近入社した人に聞かれて一番答えにくいのが「青木さんは5年後にこの会社をどうしたいんですか?」とか「会社をどこまで大きくしようと思っているんですか?」ってことで……。
安田
あぁ、わかります。
青木
始めた頃は「僕はね、こういうことをやりたいんだ!」と語れていました。今はそのためのリソースやテクニックも手に入れているはずだし、たしかにもっと価値あるものにできる気がする。でも、「何をしたいんですか?」と言われちゃうと、「それを明らかにしたくない!」という気持ちもすごくあるんです。
……なんて言うかな、僕の中にいる「もう一人」の担当領域というのがあって、彼がその都度、良い塩梅のノリでやっていることを、僕が「こっちの方向で」と口にすることで、彼にとっては足かせになってしまうというか。
安田
面白いですね! まさに先日、京都の西陣の方が「現代の織物の問題は、良い桑がない、良い蚕がいない、良い絹がない」と言っていました。国内で探したんですけれども良い場所がなく、今はラオスやメキシコで桑と蚕を育てているそうです。
あるとき、ラオスのコーヒー畑を買って、コーヒーの木を抜いて桑を植えようと思って行くと、ラオスの人たちが「なんで木を抜くの?」みたいな顔をしたらしいんですよ。彼はその表情で志が折れてしまって、コーヒーの木を抜かずに「そのままにしておこう」と。代わりに酷い土地を買って桑を植えたらしいんです。
「志」という漢字は、昔の漢字では上の部分が「足」です。「どこそこに行こう」と心に決めるのが「志」。事前に決めたことでも、現実の前では機能させない方がいいということがあります。この方の場合は、日本で考えていた志が、ラオスに行って変化した。これからの時代は、この方のように「志」がころころ変わることって、実はすごく重要なんじゃないかって思うんです。
青木
そうなんですよね。いつからか「結論が見えていないとダメだ」というのも刷り込まれてしまっていて。自分の中ではアンビバレンツな感じになっているんです……。
誰かから聞きかじった話なのですが、ある西洋の建築家が日本の武家屋敷を見学したときに、とぐろを巻いたような複雑な作りを目にして、「これはどんな建築家が、どういう意図で設計したのか」を尋ねたら、案内役が「棟梁の塩梅で」って答えたっていう(笑)。
安田
ははははっ!
青木
僕、この話が結構好きで。つまり、棟梁による瞬間的な点の判断なんですけど、それを棟梁だけが下し続けていることで、あるコンテキストみたいなものが生まれている。もちろん棟梁も良い物を作りたいと思っているから、現在の状況という制約事項と、これから出来ることの可能性をすり合わせた結果が「とぐろを巻いたような複雑な作り」だと思うんです。
もし、結果的に美しく豊かなものになることが信じられるのだとしたら、「将来を確実に予想しないと美しいものが出来ないのである」という西洋的な建築の世界へのアンチテーゼみたいに機能するはず。それだけでなく、武家屋敷を作るかのように、それほど先のことまで考えなくても「これまでと今だけ」を見て、その時にベストなことを判断を積み重ねていけば将来もよくなると思えるのであれば、ビジネスパーソンにとっても大きな福音のはずです。
要するに、ビジネスパーソンっていうのは未来を恐れ続ける生き物なわけじゃないですか。不確実性を恐れ、未来を恐れ、複雑さを恐れ……だから、いかに単純化して未来を確実なものにできるかを考えてばかりいる。でも、それは不可能なことだし、不可能に挑んでいるからこそ常につらい。
まさに、レヴィ=ストロースが言うところの「ブリコラージュ(※)」のように、未来を考えるというよりは、過去と今という持ち物だけでやり続けていく延長線上にある考え方だな、と。安田さんが(前編で)おっしゃった「故の誤用」にも通ずることかもしれません。(※「理論」や「設計」と対照にある、その場にあるものを寄せ集めて、何かを作るということ)
安田
今はMITメディアラボの所長をされているジョーイ(伊藤穣一氏)が日本にいた頃、温泉で話したことがあってね。「インターネットの検索エンジンには大きな欠点が2つあり、これらの欠点はなかなかなくせないだろう」という話になりました。
2つとも当たり前すぎる話なのですが、まずは、インターネットの検索エンジンでは、インターネット上にあるものしか検索できない。そして、インターネット上には本当に知りたいことがない場合が多い。たとえば、僕は自分がやっている能のワキ方について検索しようとは思わない。そういうことって多いと思うのです。
そして、自分の検索したいものからしか検索できない。リンクをどんどんたどっていくと、はるか遠くまで行くことはできるのですが、しかしまったく関係ないところに行くことは難しい。まったく能に興味のない人が、何かの機会で能楽堂へ行き、実際に目にして「ビクッ!」とするという出会い方は、インターネットでは起こりにくいんですね。最近はネット通販でも「あなたに合うものはこれです」と勧めてくるけれど、絶対に「あなたの興味がないものはこれです」とは提案しないでしょう?
青木
たしかに!
安田
でも、イノベーションというのは「興味のないもの」と「自分のクオリア」がぶつかったときに初めて生じることでもありますから。
会社の「上手な死に方」を考えていきたい
青木
先ほど話したブリコラージュしかりですが、今は「自分が気持ちいい」とか「なぜかついやってしまう」といったことの中に意味や意義を感じているからこそ、自分の快感を信じてあげられる気がしています。単に何の意味もなく気持ちいいだけのことでは、こういう感覚にならないこともわかってきて。
安田
それは孔子の言う「心の欲するところに従えども矩を踰えず」ですね。いわゆる「欲の違い」がわかってくる。もう20年以上前に、友人が会社を作るのを手伝い、最初は経営にも携わっていて、今はほとんど経営には携わってないんですが…。
青木
そうなんですか! 何を手がけられているんでしょう?
安田
3DCGです。
最初から一銭も借金しないで経営して、子会社を増やしたり減らししながら進めてはいるのですが、お金が余ったら映画を作っています。
2015公開の『ジヌよさらば〜かむろば村へ〜』という映画の制作では、監督と脚本が松尾スズキさんで、松田龍平さん、松たか子さん、西田敏行さん、二階堂ふみさんとかが出演してくれました。3ヶ月くらいロケもして。
青木
えぇ!? すごいですね。
安田
その前に制作会議を2年くらいやって、僕も参加していたんですけれども、基本的に何を話していたかというと、「本当に神様はいるのか?」って(笑)。
青木
いやぁ、素晴らしいです!
いま、安田さんから良いキーワードをいただきました。それが僕の中にあるキーワードともオーバーラップしすぎて、どうしても言いたいことが出てきてしまいました。実は、アカデミックな経営学者の方に会う度に提案していることがあるんです。それは「会社の衰退と死というものを肯定的に捉える研究」をしてほしいんだと。
人の生涯が、たとえ成長したとしても衰えて死ぬのなら、人生に意味はないのではないか。そんな考えを、僕は子供の発想だと思うわけです。大人になれば、みんな人生にそれなりに意味づけをする。たとえ衰えて死ぬ人生であっても、意味があるから生きていく。それこそが人間の知性だと思うんですよ。
実はビジネスも「成長して衰えて死ぬもの」じゃないですか。ところが、ビジネスは「衰えて死んだら無意味だ」と基本的に説明されている。もし、みんなが上手に衰え、上手に死ぬという例を見つけられれば、ビジネスをする人はもっと幸せになるんじゃないかと。
安田
そうですよね!死ぬのを考えるのは面白い手法です。
青木
「会社を畳むこと」を最終的な目標としてビジネスをするのは、まさにその一つだと感じるんです。
安田
とはいえ勝手に会社を畳むと従業員が迷惑をすることもあるでしょう。ですから畳むために必要なのは、子どもを作ることですね。
うちの会社は3DCGを扱っていますからソフトはどんどん変わる。でもその変化に個人として付いていき続けるのは不可能です。だから、社員にはどこかの機会でディレクターになることを勧めるんです。そうしたら、子会社を作って経営を任せることができるでしょう。
青木
今までの企業は自分のパッケージに全てを囲ってどんどん不幸になったけれども、「子どもを作る」のは違うアプローチですね。まさに衰えと死を肯定する秘密がありそうです。
あと、実は僕らも映画を作っているんですよ! 1円にもなっていないのに、僕の時間とお金を大量にここへ投じているんです、今は(笑)。
マーケットから放っておかれるくらい、説明できないことをしたい
安田
(クラシコム制作のオリジナルドラマ『青葉家のテーブル』を観つつ……)きれいな映像ですねぇ。
青木
僕らとしても、お客様から見ても「なぜ、これに取り組むの?」と一見は意味がわからないことこそ続けられますし、マーケットの競合からも放っておかれている感じで。
安田
そうそう!それが大事。放っておかれることが大事なんですよ。
青木
最近は「説明できないことの強さ」に感じるものがあって。僕らのことを誰かに説明されそうになると、こっちもあえて変なことを始めていくという習性になってきています。
安田さんの存在も、共通の知人から話を聞いても、どんな人なのかが一切わからないんですよ!(笑)。キーワードとして「能楽師の安田さん」だけが残って、僕のなかでもタグ付けされるけれど、それでは本質を全然説明できない。結局は「すごいんだよ!」としか言えないというか。
その「説明できない」ことに関して、ご自身で意識されていることはあるんでしょうか?
安田
僕自身のことというよりは、説明できないことそのものには関心がありますね。
実はある企業が「安田ラボ」を作ってくれるという話がありまして。予算も付いて、何を研究してもいいし、実験もその企業から200人くらいの社員を対象にして良し、と。企画者も上司に「最終的なアウトプットはないかもしれない。何が起こるかもわからないけど、予算を付けてほしい」とお願いしたそうです。
で、そこで何を研究するか。運と、縁と、勘です。
青木
良いですね!面白そう!
安田
200人くらいに意味もないことをやってもらったりしようかなと。説明できないことを研究しようと考えているんですよ。
青木
それらを考えるときには、いろんなアプローチあると思うんです。僕は「自分自身の存在がもっと大きなシステムに組み込まれたサブシステムの一つだ」と捉えたら、易の世界観につながったんです。易の本質は「何でもいいから何かをして何かが起これば、それには必ず意味がある。なぜなら、大きなシステムの中で起こっている表現のひとつにすぎない。だから、これを解釈すれば世界がわかる」。易の世界観で世の中を見ると、すごく生きやすいと感じるんです。
安田
おお、まさに易を200人全員にやってもらおうと思っています。中国古典は本文も大切ですが、注釈も面白いのです。易は『易経(周易)』といって五経のひとつです。その注釈を読むときにとてもいいのが、冨山房という出版社から出ている『漢文大系』 の「周易」の巻。王弼(おうひつ)と伊藤東涯の注釈が載っています。
王弼は中国の魏の神秘学者ですが、若くして亡くなり、老子と易にしか注釈をしていないんです。一方の伊藤東涯は儒学者ですよ。全く逆の立場だから、同じ易の注釈も全然違う解釈になっています。この両者が載っているのが冨山房の『漢文大系』です。だからこそ、読み手の意思が反映されます。
それから、友人の物理学者も仲間に入ってもらったのですが、この彼は東京大学で博士号を取得したあと、どこにも属さずに独立研究者をしています。「鳥の群れが曲がるときに何が起こっているのか」というような研究をしているのです。鳥の群れが曲がる時、誰かが「曲がろう」としているわけではなく、何かしらの全体的なシステムで曲がろうとしている。
この「何かしらの全体的なシステム」は人間にも当てはまるかもしれないんです。青木さんは今日、僕が映画の制作に関わっているということを知らずに、ここへ呼んだんですよね?
青木
そうなんです。
安田
しかも、ご自身でも映画を作り始めている。ひょっとしたら、この惹かれ合いは時間を超え、お互いの脳と脳が量子もつれを起こしているんじゃないか、なんていう考え方をする人もいます。これはまだトンデモ学問として認知されていますけどね(笑)。アメリカのロジャー・ペンローズという理論物理学者が「量子脳」という言い方をしています。
青木
面白い!なるほど!へぇ!でも、あまりにもそういうことがありすぎるんですよ……!
安田
そう、ありすぎるでしょう!以前に、いとうせいこうさんとこの話をしていたら、ありすぎる人はありすぎて、ない人には全くないそうですよ。
青木
本当に「世間って狭いですね!」って言い過ぎるきらいがあるじゃないですか。
安田
でも、ない人には全くないんですよ、不思議なことに。で、これをね、研究しているとそういうことがより多く起きるようになるのではないかと思っています。
青木
いやぁ、面白い! 今日はもうずっと聞いていられるような話ばかりでした。終わりの時間が惜しい!