「1500本、俺が買う」
ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ。2017年6月13日。キスヴィン・ワイナリーの醸造家、斎藤まゆさんは、胸の鼓動が早まるのを感じながら、目の前の男性の反応をうかがっていた。
その日、東京駅近くレストランには、内々に声をかけられたワイン関係者が10名ほど集っていた。その輪の中心にいたのが、所用で来日していたジェラール・バッセさん。第13回世界最優秀ソムリエコンクールの優勝者であり、ワイン界の最難関資格マスター・オブ・ワインとマスター・ソムリエの資格を持つ、斎藤さんいわく「ワイン界の神様みたいな人」だ。
バッセさんは、斎藤さんが醸造したワイン「キスヴィン シャルドネ 2014」を口に含むと、次の瞬間、頬を紅潮させながら小さく叫んだ。
「なんだこれは! うまいじゃないか!」
見るからに前のめりになったバッセさんが、斎藤さんに尋ねた。
「このワインは何本作っているの?」
「1700本くらいです」
「OK、1500本、俺が買う」
え? 斎藤さんは一瞬耳を疑ったが、バッセさんの眼差しは真剣そのもので、冗談を言っているようには見えない。ガッツポーズしたくなる気持ちを抑えて、頭を下げた。
「ごめんなさい、売り切れなんです」
「Oh……」
残念そうな表情を浮かべたバッセさんは、気を取り直すようにスマホを取り出して、斎藤さんに聞いた。
「名前は?」
「キスヴィンです」
「違う違う、あなたの名前だ」
「まゆ さいとうです」
アルファベットのつづりを確認したバッセさんが、何事かを打ち込んでいるのが見えた。気になるが、のぞきこむわけにもいかない。斎藤さんは持参したピノ・ノワールをバッセさんに差し出した。通常価格で1本、1万5000円を超える自信作だ。
バッセさんは威厳を感じさせる振る舞いで、ピノ・ノワールの味を確かめた。数秒後、なにかを確信したような様子で、斎藤さんの隣りにいたキスヴィン・ワイナリーの代表、荻原康弘さんに話しかけた。
「あなたは、いい醸造家をお持ちですね。彼女を辞めさせてはいけません。彼女をキープするために、どんなことでもしたほうがいいですよ」
英語が堪能な斎藤さんは、バッセさんの言葉が直接耳に届いていた。しびれるような感覚で、その言葉を嚙みしめた。
会合が終わり、少しフワフワした気分で会場を後にした斎藤さんと荻原さんは、ワイナリーがある山梨の塩山へ帰路に就いた。中央線特急「あずさ」のなかでホッと一息つきながらスマホを開いて、余韻が一気に冷めた。
バッセさんのツイートに、「ユニークでセンセーショナル」「才能豊かなワインメーカー」として自分の名前が記されていたのだ。2013年に設立された新興ワイナリー、キスヴィンの名とともに、醸造家「Mayu Saito」の存在は、世界に拡散された。
ボルドーのおばあちゃん
ジェラール・バッセにお墨付きをもらった醸造家が、かつてお笑い芸人を目指していたことは、あまり知られていない。
もともと外国語を学ぶのが好きで、海外生活にも興味を持っていた斎藤さんは、15歳にして日本を飛び出した。アメリカのテネシー州にある日本の大学の付属高校に進学したのである。その時、お笑いに目覚め、卒業後は「芸人になろう!」と早稲田大学の第二文学部に入学した。早稲田大学は「演劇の早稲田」ともいわれ、多くの演劇人を輩出している。いかにもアクティブな女の子は、演劇が「芸の肥やし」になると考えていたのだろう。
しかし2000年、大学2年生の夏休みに彼女の人生は大きく方向転換する。
早稲田大学でフランス語の講師をしていた加藤雅郁さんの呼びかけに応じて、ほかの学生たちとともに出かけたボルドー、ブルゴーニュ、コルシカ島を巡る2週間ほどの旅。ボルドーにある、老夫婦が経営する小さなシャトーに立ち寄ったその日はからっと晴れ渡り、濃いブルーの空が広がっていた。
老夫婦は「この場所であなたたちと出会えて、一緒に乾杯できることをとても嬉しく思います」と挨拶し、ブドウ畑で自分たちのワインを振る舞った。爽やかな風が吹き、青々としたブドウの葉が揺れる。そのなかで、老婦人は穏やかに微笑みながら、学生たちと言葉を交わしていた。その瞬間に、心を奪われた。
「お笑いは才能がなくてその時にはもう諦めていたし、自ら命を絶ってしまった同級生がいたこともあって、生きるということについて、とっても迷っていた時期でした。だから、ワインづくりというひとつの仕事をしながら年を重ねてきたおばあちゃんを見た時に、素敵だなと思ったんですよね」
その後に、みんなでブドウの収穫を手伝った。たわわに実ったブドウを手にすると、感じたことのない喜びが沸きあがってきた。気づけば、芳醇なブドウを育て、美味しいワインを作るという仕事に魅了されていた。
今年38歳を迎える斎藤さんは、18年前の出会いを振り返り、しみじみとした様子で「たった一度の旅で、人生って変わるんですね」と語った。
早稲田を中退してカリフォルニアへ
「あのおばあちゃんみたいになりたい」と思い立ってから7年後の2007年、斎藤さんはカリフォルニア州立大学フレズノ校の農学部ワイン醸造学科の最終学年に在籍していた。農業分野では世界トップクラスとして知られるこの学校のキャンパスは1400エーカー(およそ東京ドーム122個分)を誇り、構内には農場や牧場、そしてワイナリーがある。このワイナリーで学生がつくったワインは評価が高く、数々の受賞歴を持つ。斎藤さんは毎日毎日、雨の日も、風の日もこの構内のワイナリーに足を運んでいた。
なぜ、斎藤さんがカリフォルニアにいるのか。少し時計を巻き戻そう。
フランスのワイナリーを巡る旅から日本に戻った20歳の斎藤さんは、早稲田での生活に興味を失った。授業に出なくなり、両親の反対を押し切って、間もなく退学した。
その後、ワインをつくるなら料理と栄養学の知識が必要だと、自らアルバイトをした貯金で赤堀栄養専門学校(現在の赤堀製菓専門学校)に通い始めた。そこで調理師免許を取得した斎藤さんは、呆れかえる親を説得して、カリフォルニアに渡ったのである。
「フランスから戻った時に日本のワインを飲んで、なんでこんなにまずいんだろうと思ったんですよ。ボルドーのおばあちゃんみたいに旅人を受け入れる人になりたいのに、その時に出すべきワインがない。だったら、自分でつくろうと思いました。その時に、日本でワインをつくるなら、フランスとか伝統的な産地じゃなくて欧州以外の新世界と言われる地域にヒントがあると思いました」
カリフォルニア州立大学フレズノ校を選んだのは、素人でも5年間でワインの専門家に育て上げる、アメリカならではの体系的なプログラムがあったからだ。
「これだけ好き勝手にさせてもらって、結果を出さずに帰国することは許されない」と腹を括った斎藤さんは、ある目的をもって入学当初から大学内のワイナリーに通い詰めた。
「伝統的に、卒業する学生のなかでひとりだけ、ワイナリーのアシスタントとして1年間、学校に残ることができるんです。学校がビザを取ってくれて、給料をもらって働ける。どうしてもその枠に入りたかったんです。業界に出ると失敗は許されません。でも、大学のワイナリーは学生がいろんなことを失敗するためにあるんです。アシスタントになれば、自分が失敗をしながら学ぶことができるだけでなく、学生の失敗も間近に見ることができるじゃないですか。その学びは大きい」
大学生活が5年目に入ったある日、いつものようにワイナリーに足を運ぶと、専任のスタッフが声をかけてきた。
「まゆ、アシスタントにならない?」
よし! 手塩にかけて育てたブドウの樹から初めて果実を収穫するように、斎藤さんの4年間が報われた瞬間だった。
無骨なおじさん
実は、斎藤さんは在学中にあるワイナリーからアプローチを受けていた。大学で学んだことの記録、履歴書代わりとして書いていたブログ「ブドウ畑の空に乾杯」を読んで、「会いたい」と連絡してきたのが、キスヴィン・ワイナリーの代表、荻原さんだった。
山梨の塩山で祖父の代からブドウ農家をしていた荻原さんは、2005年頃から仲間たちとTeam Kisvin(チーム・キスヴィン)を立ち上げてワイナリーを設立しようと動いていた。2008年には、初めてワイン用ブドウを甲府市内のワイナリー、シャトー酒折に卸し、そこから「Kisvin Koshu 2008」が発売されたところだったが、自社の醸造所でオリジナルワインをつくることを目標にしていた。
その醸造家として、まだ学生だった斎藤さんに白羽の矢を立てたのだ。荻原さんはチームの仲間と連れ立ってカリフォルニアにきて、「日本に戻ったら山梨にきちゃえばいいよ」と半ば強引にアプローチしてきた。
しかし、斎藤さんには目の前のあか抜けないおじさんたちに懐疑の目を向けた。この人たちに繊細なワインを作れるはずがないと思っていたそうだ。その思い込みは、大学のアシスタントを終えて帰国した2009年、塩山のブドウ畑を尋ねた時に覆された。
「当時のブドウは粗削りでまだまだ完成されていなかったけど、美味しいワインを作るために真剣に力を注いでいるのを感じたし、ブドウがすごく生き生きしていたんです」
荻原さんのブドウづくりを信じた斎藤さんは、まだワインをつくる設備もなかったチーム・キスヴィンの一員となった。
フランスの名門ワイナリーで修業
その1年後、斎藤さんはフランス・ブルゴーニュ地方の最北に位置するシャブリ地区で1792年よりワインをつくっている名門ワイナリー「ドメーヌ ジャン・コレ」でブドウの収穫と醸造を手伝っていた。キスヴィンの自社醸造所の完成が遅れていたため、「Kisvin Koshu 2008」をつくったワイナリー、シャトー酒折の社長、そして関連企業である木下インターナショナルの社長 に頼み込んで修行先を紹介してもらったのだ。
当初、ブドウの収穫と醸造で最も忙しい9月、10月の2ヵ月間だけ、という話だったが、結果的に1年以上をフランスで過ごすことになった。オーナー一家から「もうちょっといない?」という引き止めが続いたのだ。
「多分、新しい場所で働くときに大切なことって、『私は仕事ができる』ということを見せることじゃないんです。それよりも、もともと働いている人たちが仕事をしやすいように、彼らのペースに合わせてサポートをしたり、言われる前に掃除をしたり、頼まれもしないのに毎日畑に足を運んでブドウの様子を報告する。そういうことをアメリカでもひたすらやって、フランスでもうまくいきました」
よく気がつく働き者の日本人を、オーナー一家はよほど気に入ったのだろう。
「せっかくきたんだから、赤ワインの勉強もしていくといい」と、シャブリの南西、ピノ・ノワールが有名な産地イランシーにあるワイナリーの仕事を紹介してくれたそうだ。
結局、フランスでは2度の収穫と仕込みを体験した。アメリカで醸造家としての基礎を叩き込まれ、新世界のワインづくりを学んだ斎藤さんは、フランスで何を得たのだろうか。
「文化、みたいなものですね。フランスでは、赤ちゃんにワインの香りをかがせていました。小さい頃からいろんな香りに触れれば触れるほどプロファイルが増えて、豊かな嗅覚や味覚が育つそうです。醸造所では小さな子どもたちがうろうろしていましたし、あらゆる食材、料理、そしてブドウやワインに対しても自然と興味とを持つように次の世代を育てていましたね。何世代にも渡って当たり前のように受け継いでゆく文化の豊かさ、ワイン文化への敬意を感じました。
そういう文化のなかで、ドメーヌ ジャン・コレでは当時25歳ぐらいの人たちがドメーヌの代表、醸造責任者として働いていたけど、家を継ぎたくないと思ったことないの?と聞いたら、『ない』と。他の職業を考えたことある?と聞いても『ない』。これって日本ではなかなか見られないことで、その違いって何なのかなと考えさせられましたね」
屋根付きのブドウ畑
山梨県、塩山。キスヴィン・ワイナリーのブドウ畑は、地域の40カ所に点在している。塩山では海外のワイナリーのように広大な土地を確保するのは難しいので、耕作放棄地などを手に入れて地道に拡大してきた。
そのうちのひとつ、シャルドネの畑を訪ねると、ブドウ畑に屋根がかけられていた。この屋根付きのブドウ畑は、荻原社長と斎藤さんのアイデアと知恵が掛け合わされたキスヴィン・ワイナリーの象徴的な存在だ。
醸造家というと収穫後のブドウを醸造するための専門家のようにも聞こえるが、実際の仕事はワインの味を決めるブドウづくりから始まる。「質の高いブドウがでさえすれば、醸造とはシンプルかつ平易なもの」という斎藤さんも、ブドウづくりのエキスパートだ。
斎藤さんは「どこどこがワインづくりに恵まれた土地で、どこどこは適さないという判断は全く信じていない」という。なにかがあるとすれば、それは気候や土質といった「違い」だけ。その違いを受け入れたうえで、「作りたいワイン用のブドウに対して一番いいことをしてあげる」ことが重要だと話す。
フランスやアメリカと違って雨が多く湿度が高い日本では、いかに水分との戦いを制すかがブドウづくりのカギを握る。高い湿度は病気の原因となることもある。そこでキスヴィンでは、十分な日光と風当たりを確保するために、棚に枝を這わせる棚仕立を採用。そこに、屋根をかけた。
「以前は、ブドウが雨に濡れないようにひと房、ひと房に傘紙をかけていたんですが、そうすると風通しが悪くなって湿気もこもってしまう。そこで雨除けの屋根を付けたところ、雨に濡れなくなったうえに風通しも日光の当たり方も以前より良くなりました。ちょっと病気になったものがあったとしても、きちんと日光に焼かれてカチカチになって自然に落ちるようになったんですよ」
ほかのワイナリーで、同じような屋根を見ることはない。常識にとらわれず、従来よりも効果的、合理的だと判断すれば採用するのが、キスヴィン・ワイナリーの方針だという。
尽きせぬこだわり
水分対策はほかにもある。
「雑草に水分や余分な養分を吸わせるために、下草を生やす草生栽培をしています。樹になっているブドウも、最終的には40%しか使いません。残りの60%は、根っこから吸い上げた余分な水分をためておくためのものなので、途中で切り落とします」
雑草に水を吸わせ、ブドウを水瓶にする。これもまたユニークな発想だろう。
水分対策は、「質の高いブドウ」をつくるための最初の一歩に過ぎない。
キスヴィン・ワイナリーでは「甲州」という日本のブドウも使用しているのだが、その栽培方法は独特だ。日光が当たって熟してくると、果皮が紫色になる。すると特有の苦みが出てしまう。そこで、甲州に関してはひと房、ひと房にクラフト紙の傘紙をかけて日光を遮断。そうすると果皮が緑のまま糖度が上がり、苦みがなく、爽やかな酸味を残した甲州になる。キスヴィン・ワイナリーではこれを「エメラルド甲州」と呼んでいる。
ブドウへのこだわりは、尽きることがない。
「ぶどうの種がないぐらいの、不受精花と呼ばれる小さい粒を増やしたいんです。これがしっかり熟すと、糖分などいろいろな要素が凝縮された粒になって、すごくおいしいワインができるんですよ。こういう粒を増やすにはどうしたらいいか、荻原といつも話し合っています。荻原は間違いなく天才で、そんなこと考えもしなかったと思うような閃きで、私が望むブドウを作り込んでくれるんですよ」
話を聞いていると、長閑なブドウ畑が最先端のラボに見えた。そう伝えると、斎藤さんは「私たちは、世界一のワインを作ると言い張ってますから」と微笑んだ。
ガレージワイナリー
2013年、荻原社長の実家の敷地の一角に完成した醸造所は、想像していたものよりもずっと小さくて、ガレージのようだった。
「最近、おしゃれな感じでブティックワイナリーと言われることもあるんですけど、気持ちとしてはガレージワイナリーです。アメリカのスタートアップみたいでかっこいいでしょ」と斎藤さん。
ソムリエの世界的第一人者ジェラール・バッセさんを唸らせ、今や国内外から注文が殺到するワインは、このガレージで生まれたのだ。
この場所で、斎藤さんは歌いながらブドウを醸造する。踊りながら瓶詰めをする。そのかたわらに、ひとり息子がいることもある。実は、斎藤さんはシングルマザー。斎藤少年は、キスヴィン・ワイナリーが設立されたのと同じ年に、この世界にやってきた。
妊娠するとお酒が飲めないだけでなく、嗅覚や味覚も影響を受けるため、醸造家の仕事をするのが難しくなるのだが、社長の荻原さんを始め、ワイナリーのメンバー全員が妊娠を祝福した。息子が赤ん坊の時も、そして今も、全力でサポートしてくれている。斎藤さんはそのことに「感謝しかない」と話す。
だからこそ、息子には自分が喜びに溢れながら世界を舞台に仕事をする姿を見せたいと思っている。いつか、「僕もワインを作りたい」と言ってくれたら良いな、と思いながら。
ライタープロフィール
川内イオ
1979年生まれ。大学卒業後の2002年、新卒で広告代理店に就職するも9ヶ月で退職し、03年よりフリーライターとして活動開始。06年にバルセロナに移住し、主にスペインサッカーを取材。10年に帰国後、デジタルサッカー誌、ビジネス誌の編集部を経て現在フリーランスエディター&ライター&イベントコーディネーター。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンターとして活動している。稀人を取材することで仕事や生き方の多様性を世に伝えることをテーマとする。
PROFILE
好きなもの:仕事のあとのロゼワイン一杯 大相撲観戦 ジャズヴォーカルの習い事