2018.03.26

書く人/編集する人、そしてメディアが果たせる役割とは──編集者 若林恵×クラシコム 青木耕平対談 前編

書き手 長谷川 賢人
写真 木村文平
書く人/編集する人、そしてメディアが果たせる役割とは──編集者 若林恵×クラシコム 青木耕平対談 前編
アイデアとイノベーションを軸にした雑誌『WIRED』で5年にわたり編集長を務めた若林恵さん。編集長退任のニュースは瞬く間に広まり、惜しむ声も多い中、現在は黒鳥社(blkswn publishers)を立ち上げて新たに出発しています。

このクラシコム代表青木との対談は、編集長退任から今後の活動を告知していく合間の2月末に開催。ECサイトやメディアの潮流だけに留まらない、コンテンツ、ブランド、未来のビジネスについての眼差しが交差し合う時間となりました。

ほぼ同年代のふたりだからこそ、目にしてきたカルチャーや、いま抱えている課題に関しても共通項が浮かびあがってきたようです。

「書くとき?読者なんて一切見てない。あと、文章が下手なやつって……」

青木
若林さんの目から見て、「北欧、暮らしの道具店」はどんなふうに見えているのかを直裁的に教えていただけたら会話の出発点になるのでは、と。緊張しますが……。

若林
青木さんのインタビューを読んだりして、面白いなって思ってました。もともとメディアをやろうとしていた方たちじゃないからこそ、メディアを取り巻くいろんなことに、引っかかりを覚えるんだろうという気はしていて。

青木
たしかに、そうですね。

若林
メディアをやりたくて、この世界に入ったような人は「写真のキャプションに何の意味があるんだろう?」なんて、いちいち問わないんですよ。だから、ビジネスにしっかり取り組んできた青木さんたちが問い返したり、要素を見直したりするのは重要だろうと。

そもそも青木さんって、北欧には興味があるんですか?そんなにないんですか?

青木
いちばん興味があるのは、北欧というテーマを日本で語った時に喜んでくださるお客様のことですかね。インテリアが生まれてきた背景や、暮らしている人たちの考え方にも興味はありますけれど。

若林
なるほど、そうなんだ。

青木
僕らのような物販の仕事だと「お客様に愛されたい」みたいなテーマを掲げる人もいますが、愛されるかどうかって、ずっと自分が愛せるかどうかに掛かっていると思っていて。だから、好きになれる相手に“何か”を手渡していく仕事なら、一生できるだろうとは感じているんです。

僕は何事も具体より構造に目がいくほうです。そういう意味では、お客さまに関する具体論に関しては、共同創業者の妹が見ているという担当分けができていますね。

若林
僕はお客さんってあんまり興味ないんです。「作りたいもの」と「読みたいもの」があったとして、お客さんの「読みたいもの」って客観的には明らかにならないものだと思うから。あくまでも作ってる側の主観的な想像でしかないわけで。

僕は仕事で原稿を書いたりすることが多いのですが、原稿を書いてるときには読者のことなんてまるで見ていないんですよ。

青木
何を見ているんでしょう?

若林
ただ、言葉を見ているんです。「言葉と対話している感覚」が強いというか。

つまり、自分が書いている言葉の中に読み手がいる感じなんですね。もうちょっと広い言葉でいうと「社会と対話する」みたいなことで、自分も当然にその社会にはインクルードされている。当然「社会」には主観も含まれていて、だからこそ文章ってのは、主観と客観とが入れ子構造みたいなかたちでお互いを包合しあってるようなものとしてあって、それは分離不可能なものとして存在してるんです。

最近、腹落ちしたことがあるんですが、文章が下手な人って、なんで下手なんだと思います? 自分で自分の文章が「読めない」からなんですよ。「書けない」のではなくて。

青木
おー!面白い。

若林
他者から「全然文章がつながってないじゃん」と見えることに気づけないのは、実は書き手の読解力に問題があるんですよ。自分の中の書き手と読み手が均等に存在していないというか……読み手のほうが弱いんですね。だから、文章がうまい人っていうのは読むのも上手なはずなんです。しかも、自分の文章をしっかり読める。

これはある小説家が話していたことなんだけど、最初は自信がないから接続詞なんかをいっぱい入れちゃっていたと。接続詞を外しても伝わるようにするには、前後の文章の関係をしっかり把握して、しかも読み手がどう読むかをきちんと査定できていないといけないわけですから、他者が読んでいるように自分の文章を読めていないと、正しく制御できないんです。それこそが読解力なんですよ。

クラシコム流「書くうえでやめてほしい2つのこと」

青木
今のお話を聞いていて、僕も結構、近いことを考えていたんです。クラシコムスタッフには「書くうえでやめてほしい2つのこと」を伝えてあるのですが、ひとつは「書きたいものを書く」こと。もうひとつは「みんなが読みたいであろうものを書く」ことです。

では、どうするか。なによりも「自分が読みたいものを書いてほしい」と。

「北欧、暮らしの道具店」はもともとお店のユーザーを中心にスタッフを採用しているのもあって、自分が読みたいものだったら、求める人は絶対にゼロではないだろうと。でも「みんなが」としてしまうと、それはゼロかもしれないわけです。これも若林さんがおっしゃったこととの関係が深い気がしますね。

若林
「自分の作っているものを読解する技術」は、本来的にはスキルとして身につけないといけない類のものなんですが、それって習わないんですよね。読むとか聴くって、非常に能動的な行為だし、訓練が必要になんですよ。

青木
文章上達のススメとして、名文の“写経”を勧められたりするのも関係してきますか?

若林
あると思いますよ。僕も昔、好きな詩とかを写したりしてましたけど、それって主観化しつつ客観化することの訓練になると思うので。

まぁ、「作りたいもの」と「読みたいもの」とか、主観と客観とか、常にありがちな対立なんですよ。出版で言うなら編集部と販売部ってだいたい仲が悪いんだけど、編集部の言い分からすると、ある意味で自分たちは精緻なマーケティングをやってるわけです。具体的な読者と対話しているわけでは必ずしもなくても、「この言い回しって今はイケてないよね」とかがわかる。

青木
あります、あります。

若林
同じようなことをあらゆるレイヤーで判断しているわけで、実際のマーケットに対する感覚においても編集者は解像度が高いはずなんです。当たり外れはもちろんあるんですけど、そもそも「好きなように作る」ほうが、よっぽど困難なんですよ。すべてを決定する根拠を自分の中に探すなんて無理ですから。そんなことしてたら仕事にならないわけで。

青木
たとえば、夕食の献立をゼロベースで毎日考えるのは辛いけれど、冷蔵庫を開けて「あるもので何ができるかな」と考えるほうが、美味しいうえに長く続けられるというか。ある種の制約条件がないと難しいわけですよね。

若林
そうそう。まぁ、制約がだんだん窮屈になってくるというのもあると思うんだけど、それは経験で補える部分だったりもするし、そういう制約なしにものをつくるというのは、才能があって上等な人のやることですよ。そういう人にしたって、やはりなにかをつくる上では、なんらかの制約を自分には課すんじゃないかとは思いますけどね。

ブリコラージュできる編集者が世にもっと出るべき

若林
僕は、編集者ってもっと世の中に出ていったらいいと思っていて。なぜかと言うと、たとえば、ブロックチェーンに関する本を出版することになったとき、担当編集者はどれくらいの類書がすでにあり、刊行する本の特色でどのように差別化するかも定義できているわけです。でも、それができている人って、実は世の中にほかにあまりいないんですよ。

研究者は関連書を全部読むにしたって、「この本はイケてるのか、イケていないのか」みたいな下世話なことまで考えてはないはずで。

青木
マーケットやビジネスの位置づけまでは見ていないでしょうしね。

若林
だから、そういうところをちゃんと語れる編集者は、言い換えると世の中において非常に面白い知見を持っている人たちなわけです。そういう価値をもうちょっと外に出していったらいいと思うんです。

青木
僕も、あらゆる専門職の中でも編集者って特異だと思っています。編集者は最初にマテリアルがあって、それらをブリコラージュしていく仕事ですよね。

でも、多くの専門職が極めているのはエンジニアリングで、完成形や設計図に向けて要素を積み上げる仕事です。スキルとエンジニアリングが幅を利かせる世の中において、ブリコラージュとセンスで仕事をする世界はかなり特殊だと見ているんです。

僕が一時期考えていたのは、なぜ大企業は何万人と社員を抱えているのに、外部からアートディレクターを招聘するんだろう、と。何万人といれば一人くらいはその役割ができる人がいてもよさそうなものですが、ほとんどの専門職はエンジニアリングの訓練を受けているだけで、ブリコラージュの訓練を受けていないからなんですよね。

若林
なるほど、なるほどね。

青木
今後は「ブリコラージュできる人の活かし方」が大きなテーマになるはずです。加えて言うなら、そういった人がスキルを向上させると、センスが壊れてしまうという逆相関の関係もあるのではと考えています。

あくまで僕の見解なんですが、センスって「好き嫌いにおける一貫性のある文脈」だと思っているんですね。今までの世界はモノの有無が重要だったので、モノが作れるのか否か、あるいは作業ができるのか否かにおいては、早い段階でスキルを身につけて好き嫌いを克服させるというイニシエーションが発生していた。ここでおそらく、みんなに備わっていたはずのセンスが破壊されてしまった。

だから、現在は「好き嫌いを克服できなかった人」こそがセンスを維持できていて、ブリコラージュもできていると思うんです。それこそ僕や、失礼な言い方になりますが若林さんも含めて。

若林
うんうん。たとえば、新しい映画が始まったときに編集部員と雑談するようなときに、「ぼくは好きでした」っていうようなコメントを禁止にしてたんですよ。お前の好き嫌いなんてどうでもいいし、絶対に言わなくていいから、「何が面白いのかを話せ」と。

それは主観と客観を行き来するっていう訓練にもなって、たしかにセンスみたいなものも介在するだろうけど……うーん、それと「好き嫌い」は微妙に違うのかもしれないという気もする。青木さんの「好き嫌い」を自分の言葉にすると、おそらくは「倫理観」かな。

青木
あぁ、そうですね!

若林
ヘイトスピーチみたいなものは、やっぱり気分悪くなるよね……とか。そういう「世の中にあってしかるべきではないこと」を判断するのって、青木さんがおっしゃるようなスキルの世界では問われないんですよね。だから、僕としては、倫理とか、善悪の判断なんじゃないかな、と。

「嫌い」は克服しないほうがいい?

青木
それでいうと、僕は「好きを活かそう」というより「嫌いを克服しない」ことを重視しているところがあって。

「嫌いがわからない」というのは“編集的な”価値判断をする人にとっては、致命的な欠点になるんじゃないでしょうか。でも、「嫌いなものが多い=大人じゃない」と言われやすくて、それはそれで社会における価値がある考え方だと思うけれど……。

若林
致命的だと思うし、それは重要ですね。原稿をチェックしているときにも「なぜこういう差別的な言い回しを平気でするんだ」とか「どうしてこんなに偉そうなの?」みたいに思うことがあるわけです。そういうものへの注意深さが圧倒的に大事な仕事なのに、そこに気づかない。で、これは直せと言われて直るものじゃなさそうなんですよね。

青木
「今後どうしたらいいのかわからない」といったメディアにまつわる相談を受けた時も、たいてい「嫌いなものがわからなくなっているのかな」と感じますね。僕は嫌いなものがすごく多いんで、嫌いなことをやらないとすると、やれることがほぼ一択とかになっちゃうんですよ。

若林
わかるわかるわかる(笑)。イヤなものはイヤですからね。それはもう半ば生理的に。それにしたって、もうちょっと良い言い方がないもんですかね?(笑)

青木
そうなんですよ……これだけ話すと子供じみたおじさんの会話みたいになる(笑)。

ただ、僕はこの子供じみて聞こえる感覚を全肯定することからしか、コミュニケーションや対話って生まれないとも思っていて。「嫌い」をお互いに肯定しながら、あり得る選択肢を探そうというのが対話なんじゃないかと。「それは子供のすること」って深堀りもしないで仕分けてしまうのが、本当にいいことなのか。

若林
ほんとですね。考えてみればメディアの個性ってのは、「なにが嫌いか」っていう軸をめぐって立ってるもののかもしれないですね。僕がオウンドメディアに感じる問題のひとつはそれで、「嫌い」をメッセージとして発せられないからなんだと思います。

青木
立場上、言えないことが多いと。

若林
別に言ってもいいと思うんですけどね。

青木
どんな場合も「嫌い」と公言するかは別として、「嫌い」なことはいくら大きな声で求められてもやらない、そういうことは僕らの美意識や倫理観ではやりたくないことなんだということは、メディアとしての振る舞いを通じて感じてもらいたいなと思います。

ダイレクトな価値交換よりも期待値を高めるビジネスを

若林
そもそもコンテンツを作るビジネスって結果を自分の手で刈り取ることが不可能なものだって思ってるんですよ。WIREDのウェブをやっているときにテックサイドの人たちと議論になるのって必ずそこで、彼らは基本がECサイトの発想なんですよ。

Amazonとか、北欧、暮らしの道具店もそうなのかもしれないですが、欲しいものに最短でたどり着くためのステップを想定するわけです。最終的には「消費」が一応のゴールとしてある。でも、メディアの記事って別に目的もゴールもないんですよ。

青木
そうですよね。

若林
ただ僕らは「面白くない?」って見せて、「すげぇ面白い」と答える人たちがいるだけで。しかもその「面白い」は、願わくばその人に違う価値観をもたらすとか、ものの見方がより豊かになって生き方が変わるとか……そういうものであって欲しいわけですが、それってただひたすら読者の中で起こることなので、僕らには関与できないんですよね。

『WIRED』を読んで、何かしらの啓示を受けて会社を辞めて起業する人なんていうのはわかりやすい例ですけど、だからと言って、儲けた分のリターンをよこせみたいな話はないし(笑)、メディアから受けた影響を意識しないまま20年経って、あるときに「若い頃に『WIRED』を読んでいたのが実は大きな体験だったのかも」って思い返すかもしれない。そのときに、その結果を自分たちの利益として刈り取るのは原理的にはできないわけですよ。

青木
ダイレクトに価値交換はできないということですね。

若林
うん。それとは全く違うし、物事ってそんな簡単にダイレクトに価値交換できるものじゃないって思ってるのもある。

短期的なある種の満足によって、対価を支払った分の何かを得られましたというアリバイでしかないというか。2500円の本を買ったときの費用対効果って、絶対に測定不能じゃないですか? 10年後に読むと「めちゃくちゃ面白いじゃん!」と知るのも有りうること込みで買うわけだから。

青木
生きる態度みたいなのですよね。2500円の本を買うって。

若林
ですね、そもそも物の価格って、生産や流通までのもろもろが結晶化された上に、買う側の膨大な情報をそこに投影した上で決定されるものですよね。いろんな「期待」という複雑で膨大なパラメーターがあって、2500円の本を買うという判断をする。

青木
しかも本って、雑貨などと違ってほぼ中身がわからないで買うから、みんなからの支持だとか期待値を表した値付けにもなっていくと思うんですが、クラシコムも常に「期待値」を運用するビジネスをやっているのに近いんです。

仮に10億のファンドを年間利回り5%で回していると、年間5000万円の利益が出ます。これを倍にするなら、ひとつはリスクをとって運用利回りを10%にする場合と、ファンドの元本を20億にする場合とがある。世の中にある多くの儲かる取り組みは「ダイレクトな価値交換」に集中するのだとすると、前者の利回り10%を目指しがちなんです。

ただ、クラシコムとしては後者にアプローチするビジネスをやっていたい。北欧、暮らしの道具店ってセッションが1000回あってもコンバージョンが4件しか立たないお店で、数学的に言うなら誰も買っていないのと一緒みたいな状況なんです。しかも、僕らもなんで売れるのかがイマイチわかっていない(笑)。

サンプル数が少なすぎてリバースエンジニアリングもしようがないから、とにかくみんなが支持してくれれば確率論的になぜか売れるだろうと、2011年から買う人に対するサービスから買わない人へのサービスに転換したのが、メディア化の大きな舵切りでした。

若林
なるほど、面白い。

青木
ファンドの元本にアプローチしていれば、いつか功徳が結ばれてお金もついてくるんじゃないかという誠に雑な考えなんですけど。ただ、そっちのほうが儲かるんじゃないのかとすら思っているし、実際に売上も10倍近くになりました。

だから若林さんがおっしゃられている価値の時間軸とか、ダイレクトな価値交換だけではない間接性とか、僕もその通りだと思うし、より儲けてそれを証明したいという気持ちもあるんです。若林さんがテックサイドのEC論と揉める前に「いやいや、でも証明されてるからさ」って済ませられるようにしたいというか……。

若林
ほんと、してくださいよ、早く(笑)。

青木
ははは(笑)。

 

後編「情報はいらない。未来も語るな。必要なのは「希望」である

 

取材協力:コパイロツト (COPILOT Inc.)

PROFILE
編集者
若林恵
1971年生まれ。ロンドン、ニューヨークで幼少期を過ごす。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業後、平凡社入社『月刊太陽』編集部所属。2000年にフリー編集者として独立。以後,雑誌,書籍、展覧会の図録などの編集を多数手がける。音楽ジャーナリストとしても活動。2012年に『WIRED』日本版編集長就任、2017年退任。2018年、黒鳥社(blkswn publishers)設立。